毛沢東が最も高く評価した古代の将軍=陳慶之?

中国大陸のサイトのあちこちで「毛主席最為推崇的古代将軍−陳慶之」というコピペが出回っている。

毛主席最为推崇的古代将军——陈庆之。
  毛主席在解放后日理万机的国事操劳中,对正史《陈庆之传》一读再读,对传内许多处又圈又点,划满着重线,并充满深情地批注:“再读此传,为之神往”(张贻玖《毛泽东读史》)。

しかしこの文は『侍従軍神』という本の内容紹介文をもとにしたコピペであり、
はっきりいって中国人読書家向けの書籍の売らんかなキャッチコピーである。
そのへんは割り引いて読まなくてはならないと思っている。
僕はこのコピーのもととなった張貽玖『毛沢東読史』という本を読んだことはないが、毛沢東が正史の陳慶之伝を読んで、アンダーラインや点を打ち、「再読此伝,為之神往」とコメントを書きこんだというのは事実だろうと思っている。

毛沢東と読書 不動筆墨不読書(渡部陽のホームページ)

読書は古今東西にわたり歴史書では「二十四史」、「資治通鑑」、「尚書」、「春秋」、「左伝」、「続資治通鑑」、「歴朝紀事本末」を愛読していたという。

毛沢東は「不動筆墨不読書」をモットーとしていた。すなわち自分の読んだ本には必ず大量の書き込みをした。○、X、アンダーライン、コメント、読んだ日付などの書き込みである。これは毛の学生時代の徐特立先生に教わったことであった。

つまり毛沢東は読書好きであり、なかでも歴史書好きであり、読んだ本には大量の書きこみをしていたのである。その中のごくごく一部の書きこみを取り上げて、毛沢東が最も高く評価した古代の将軍を陳慶之と決めつけるのは、フェアな態度とはいえない。しかし最も高く評価したかどうかはともかく、ある程度高く評価したのは事実だろうと思う。

以下、脱線だが、毛沢東の歴史書好きエピソードはいろいろ面白い。

毛沢東サイドエピソード:その1毛沢東ドチェック)

1949年、毛沢東が北京入城の際に側近に命じて帯同させた書物の中にマルクスレーニンの著作はなく、『辞海』と『辞源』の2冊の辞書と『史記』と『資治通鑑』の2冊の歴史書。

毛沢東中南海入りする準備を進める中、彼の書斎に大量の書物が運び込まれた。ここでもマルクス・エンゲルスの著作は数冊しかなく、レーニンに至っては全くなかった。そこで側近が「嘘でもいいからそろえろ」と命じたと伝えられている。しかしこの話の真偽は疑わしいようだ。この話の出所は、王宏世(毛沢東の書籍を管理、執筆した人物)、張然信(哲学・社会学関係書籍担当)へのインタビューであるが、張治(北京国立図書館古典専門家)は、毛沢東自身がマルクスレーニンの著作を置くように命じた可能性もあると話している。

『毛沢東と周恩来』(YABUKI's China Watch Room)

毛沢東、晩年の読書『資治通鑑

毛沢東は『資治通鑑』を愛読し、一七回読んだと語り、孟錦雲相手に皇帝論を展開している。いわく「中国の皇帝は面白いね。ある皇帝はデキるが、ある者はまるで大バカだ。だが仕方がないな。皇帝は世襲だから親父が皇帝なら息子がどんなにバカでも皇帝になる。これは息子をせめても始まらない。生まれたら即皇帝なのだから。二、三歳で皇帝になるという笑い話さえある」

「中国史には三歳の皇帝がいるが、三歳の赤ん坊が車を引いたという話は聞いたことがない。六歳でも車は引けない。皇帝になることと車引きになることととどちらが難しいと思うかね。皇帝がバカだと、大臣どもがデタラメをやり、民百姓から掠めとる。民百姓が文句をいうと鎮圧するが、その方法は残酷極まる。『資治通鑑』にこう書いてあるよ。当時の刑罰の一つだが、囚人の腹を割いて腸を引っ張って歩かせるものだ。その苛酷さに民百姓が我慢できなくなれば造反だし、皇帝が鎮圧できなくなれば、それでオシマイだ」。

孟錦雲がたずねる。王安石司馬光は仇同士でありながら、友人だったとはどんな意味ですか。毛沢東いわく、「この二人は政治的には仇同士だった。王安石は変法をやろうとしたが、司馬光は反対した。しかし学問上では二人は良き友であり、互いに認め合っていた。これは学ぶべきだね。政見を異にするがゆえに人さまの学問を認めないのは、あってはならない」。それが容易じゃないと孟錦雲は文革期の内ゲバの例をもちだす。

毛沢東は説得を試みたあと持論をくりかえす。「中国には二大史書がある。『史記』と『資治通鑑』だ。ともに才気はあるが政治的に志を得なかった境遇のなかで書かれたものだ。どうやら人は打撃をこうむり、困難にぶつかるのはまんざら悪いことでもなさそうだ。むろん、その人に才気があり、志がある場合の話だがね」。

ここで唐代の武則天の石碑の話になる。彼女が墓前の石碑に何も刻ませなかった故事は有名だ。私は八七年秋の訪中のさい、この碑の前で同行の人々とその理由を穿鑿しあった記憶がある。白紙のような碑面は、文字に書ききれないほど功徳が大きい意味だと解釈するのが通例である。

毛沢東は「功罪は後人に論評せしめよ」の意と解釈した。中国では由来「棺を蓋いて論定まる」という。毛沢東武則天に托して自らの功罪評価を歴史にゆだねたのかもしれない。

毛沢東のことはさておき、近年に大陸の歴史愛好家のあいだで陳慶之の名が知られているのは、やはり田中芳樹『奔流』の中国語訳が出回った影響が大きいことは指摘しておく。