冥婚

趙翼『陔余叢考』巻三十一より

冥婚
『周礼』地官に「嫁殤の禁」がある。注にいうには、生きているときは夫婦でなかったのに、死んでから夫婦として葬られるものである。
曹操の幼子の倉舒(曹沖)が亡くなると、掾の邴原のむすめで若く亡くなったのがいたので、曹操は倉舒とともに合葬しようと求めた。邴原は「嫁殤は礼にあらず」といって断った。そこで甄氏の亡くなったむすめをめとってともに合葬した。
魏の明帝の幼女の淑が亡くなると、甄皇后の従孫の甄黄を取って彼女ととともに合葬した。甄黄を追封して列侯とし、かれのために跡継ぎを置いて爵位を継がせると、陳羣は「八歳までの若死には、礼の備えていないところです」と諫めていった。
『北史』穆崇伝によると、穆崇の孫の平城が早くに亡くなった。孝文帝のとき、始平公主が宮殿で亡くなると、平城に駙馬都尉を追贈して公主と冥婚させた。
旧唐書』懿徳太子重潤伝によると、中宗は国子監丞の裴粹の亡くなったむすめをめとらせ、冥婚させて合葬した。
蕭至忠伝によると、韋庶人(韋皇后)は亡くなった弟の韋洵のために、蕭至忠の亡くなったむすめを与えて、冥婚させて合葬した。韋氏が敗れると、蕭至忠は墓をあばいてそのむすめの柩を持ち帰った。
建寧王琰伝によると、代宗が立つや、琰の死がその罪ではなかったことを思って、追諡して承天皇帝とし、興信公主の亡くなったむすめの張氏を恭順皇后として冥配させた。
およそこれらはみな経典にそむくことはなはだしいものである。

まだ続きがあるんですが、以下略。
中文版Wikipediaでも、冥婚は漢朝より前からあるようなことを言いながら、最初に挙げる例はやはり曹沖なんですわ。はたして頓智小僧が文献の初例なのかどうか。まあわざわざ『周礼』が禁じるくらいだから、禁に反する風習が『周礼』成立当初からあったんでしょうけど。