干将・莫邪の剣

国史上でもっとも有名な名剣というと、「干将・莫邪の剣」である。史上というと誤解を招くが、ほぼフィクション・伝説上の存在でありながら、長らく名剣として人口に膾炙してきた業物である。近ごろ『封神演義』や『Fate』でこれを知ったという人もいるのではなかろうか。
さて、『捜神記』巻十一を引く。グロテスクな話が苦手な人は引き返してほしい。

楚干將莫邪為楚王作劍、三年乃成、王怒、欲殺之。劍有雌雄、其妻重身、當産、夫語妻曰:「吾為王作劍、三年乃成;王怒、往、必殺我。汝若生子、是男、大、告之曰:『出戸、望南山、松生石上、劍在其背。』」於是即將雌劍往見楚王。王大怒、使相之、劍有二一雄、一雌、雌來、雄不來。王怒、即殺之。莫邪子名赤、比後壯、乃問其母曰:「吾父所在?」母曰:「汝父為楚王作劍、三年乃成、王怒、殺之。去時囑我:『語汝子:出戸、往南山、松生石上、劍在其背。』」於是子出戸、南望、不見有山、但堂前松柱下石之上、即以斧破其背、得劍。日夜思欲報楚王。王夢見一兒、眉間廣尺、言欲報讎。王即購之千金。兒聞之、亡去、入山、行歌。客有逢者。謂:「子年少。何哭之甚悲耶:」曰:「吾干將莫邪子也。楚王殺吾父、吾欲報之。」客曰:「聞王購子頭千金、將子頭與劍來、為子報之。」兒曰:「幸甚。」即自刎、兩手捧頭及劍奉之、立僵。」客曰:「不負子也。」於是屍乃仆。客持頭往見楚王、王大喜。客曰:「此乃勇士頭也。當於湯鑊煮之。」王如其言。煮頭三日、三夕、不爛。頭踔出湯中、躓目大怒。客曰:「此兒頭不爛、願王自往臨視之、是必爛也。」王即臨之。客以劍擬王、王頭隨墮湯中;客亦自擬己頭、頭復墮湯中。三首倶爛、不可識別。乃分其湯肉葬之。故通名三王墓。今在汝南北宜春縣界。

自分で訳すのはめんどうなので、岡本綺堂中国怪奇小説集』捜神記の段を引く。

眉間尺
楚の干将莫邪は楚王の命をうけて剣を作ったが、三年かかって漸く出来たので、王はその遅延を怒って彼を殺そうとした。
莫邪の作った剣は雌雄一対であった。その出来たときに莫邪の妻は懐妊して臨月に近かったので、彼は妻に言い聞かせた。
「わたしの剣の出来あがるのが遅かったので、これを持参すれば王はきっとわたしを殺すに相違ない。おまえがもし男の子を生んだらば、その成長の後に南の山を見ろといえ。石の上に一本の松が生えていて、その石のうしろに一口の剣が秘めてある」
かれは雌剣一口だけを持って、楚王の宮へ出てゆくと、王は果たして怒った。かつ有名の相者にその剣を見せると、この剣は雌雄一対あるもので、莫邪は雄剣をかくして雌剣だけを献じたことが判ったので、王はいよいよ怒って直ぐに莫邪を殺した。
莫邪の妻は男の子を生んで、その名を赤といったが、その眉間が広いので、俗に眉間尺と呼ばれていた。かれが壮年になった時に、母は父の遺言を話して聞かせたので、眉間尺は家を出て見まわしたが、南の方角に山はなかった。しかし家の前には松の大樹があって、その下に大きい石が横たわっていたので、試みに斧をもってその石の背を打ち割ると、果たして一口の剣を発見した。父がこの剣をわが子に残したのは、これをもって楚王に復讐せよというのであろうと、眉間尺はその以来、ひそかにその機会を待っていた。
それが楚王にも感じたのか、王はある夜、眉間の一尺ほども広い若者が自分を付け狙っているという夢をみたので、千金の賞をかけてその若者を捜索させることになった。それを聞いて、眉間尺は身をかくしたが、行くさきもない。彼は山中をさまよって、悲しく歌いながら身の隠れる場所を求めていると、図らずも一人の旅客に出逢った。
「おまえさんは若いくせに、何を悲しそうに歌っているのだ」と、かの男は訊いた。
眉間尺は正直に自分の身の上を打ち明けると、男は言った。
「王はおまえの首に千金の賞をかけているそうだから、おまえの首とその剣とをわたしに譲れば、きっと仇を報いてあげるが、どうだ」
「よろしい。お頼み申す」
眉間尺はすぐに我が手でわが首をかき落して、両手に首と剣とを捧げて突っ立っていた。
「たしかに受取った」と、男は言った。「わたしは必ず約束を果たしてみせる」
それを聞いて、眉間尺の死骸は初めて仆れた。
旅の男はそれから楚王にまみえて、かの首と剣とを献じると、王は大いに喜んだ。
「これは勇士の首であるから、この儘にして置いては祟りをなすかも知れません。湯鑊に入れて煮るがよろしゅうござる」と、男は言った。
王はその言うがままに、眉間尺の首を煮ることにしたが、三日を過ぎても少しも爛れず、生けるが如くに眼を瞋らしているので、男はまた言った。
「首はまだ煮え爛れません。あなたが自身で覗いて御覧になれば、きっと爛れましょう」
そこで、王はみずから其の湯を覗きに行くと、男は隙をみてかの剣をぬき放し、まず王の首を熱湯のなかへ切り落した。つづいてわが首を刎ねて、これも湯のなかへ落した。眉間尺の首と、楚王の首と、かの男の首と、それが一緒に煮え爛れて、どれが誰だか見分けることが出来なくなったので、三つの首を一つに集めて葬ることにした。
墓は俗に三王の墓と呼ばれて、今も汝南の北、宜春県にある。

これが干将・莫邪の剣の基本エピソードなのだが、いろいろ問題が含まれている。
まず上記の『捜神記』では、干将イコール莫邪は楚の人で、剣は楚王が命じて作らせたものである。
しかし『呉越春秋』では、「楚王が風胡子に命じて呉の干将と越の欧冶に剣二ふりを作るよう依頼させ、その一を龍泉といい、二を太阿という」とある。
『越絶書』では、「楚王が欧冶子・干将を召して鉄剣三ふりを作らせた。一に干将といい、二に莫邪といい、三に太阿という」とある。
史記集解』所引の応劭は、「莫邪は、呉の大夫である。宝剣を作り、名を冠した」という。
鮑本『博物志』では、「この二剣は、呉王が干将に作らせた。干将は、越の人である。莫邪は、その妻であり、また善く剣を作った」とある。
『太康地記』では、「汝南の西平に龍泉水があり、この水で刀剣をすすぐと、とくに堅くするどくなるので、龍泉の剣は楚の宝剣である。…このため天下の宝剣は多く集まり、一に棠谿といい、二に墨陽といい、三に合伯といい、四に鄧師といい、五に宛馮といい、六に龍泉といい、七に太阿といい、八に莫邪といい、九に干将という」とある。
淮南子』では「墨陽の莫邪である」とある。
諸書によっていかに混乱をきわめているかうかがえよう。干将・莫邪が同一人物か否か、出身地はどこか、莫邪は呉の大夫か干将の妻か、剣を作るよう命じたのは楚王か呉王か。どうやら統一見解はないらしい。

さて、ここであまり知られていない『晋書』巻三十六張華伝の話を引いておこう。

かつて、呉がまだ滅びていなかったとき、南斗と牽牛星の間にいつも紫気がただよっていた。道術者たちはみな、呉はちょうど運気が強盛であり、まだ併呑することはできないだろうといっていた。ただ張華のみがそうではないと主張していた。呉が平定された後、紫気はますます明るくなってきた。張華は、豫章の人の雷煥が天文に詳しいと聞いて、雷煥を邸に招いて泊まらせ、人払いをして「いっしょに天文を見て、吉凶を調べよう」といい、楼閣に登って仰ぎ見た。雷煥は「わたしはこのことを長らく存じていました。ただ南斗と牽牛星の間に異様な運気があるだけです」といった。張華は「これは何の兆しだろうか?」と尋ねた。雷煥は「宝剣の精が上って天に届いているだけです」といった。張華は「君の言はきっと当を得ている。わたしが幼少のとき、顔相をみる者が、わたしの年が六十を越えると、位は三公にのぼり、宝剣を佩くことができるだろうといわれたものだ。あの言は当たっていたのだ!」といった。そして「何郡にあるだろうか?」と尋ねた。雷煥は「豫章郡豊城県にあります」といった。張華は「君を責任者とし、隠密に宝剣を探してもらいたい、よろしいか?」といった。雷煥はこれを請け負った。張華は大いに喜んで、すぐに雷煥を豊城の県令に任じた。雷煥が県に到着すると、獄舎の基礎を掘り返し、地中に四丈あまり掘ったところに、ひとつの石函があらわれ、光気はふつうのものではなく、中に二ふりの剣があり、一に龍泉、一に太阿と銘が刻まれていた。その日の夕方、南斗と牽牛星の間の紫気は再び見えなくなった。雷煥が、南昌西山の北の巌の下の土で剣を拭うと、光芒がつややかに発せられた。大盆に水を盛り、剣をその上に置くと、見る者の眼はまばゆさに眩んだ。使者を送って一ふりの剣を南昌の土とともに張華に送り、一ふりはとどめて自分が佩いた。ある人が、「二ふりを得て一ふりを送ったのでは、張公を欺いたことになりませんか?」と雷煥に忠告した。雷煥は、「晋朝は今にも乱れようとしており、張公はその災いを受けるだろう。この剣は、呉の季札が徐君の墓の樹に剣を立てた故事のようにするだけだ。霊異の物というのは、けっきょく姿を変えて去ってしまうもので、長く人に服するものではない」といった。張華は剣を得て、宝としてこれを愛し、いつもかたわらに置いていた。張華は南昌の土が華陰の赤土に及ばないとし、雷煥に手紙で知らせて、「詳しく剣文を見ると、これは干将である。するとどうして莫邪はやってこないのか?分かれていても、天生の神物は、けっきょく合わさるだけだろう」と書いた。そして華陰の土一斤を雷煥に送った。雷煥がこの土で剣を拭うと、剣の輝きは倍にも増した。張華が殺されると、剣の所在は失われた。雷煥が亡くなると、子の雷華が州従事となり、剣を持って延平の渡し場を渡っていると、剣は忽然と腰間から躍り出て水に落ちた。人に水の中を潜らせて取りかえそうとしたが、剣は見つからなかった。しかし二匹の龍が長さ数丈にわたって絡まりあっている文様が見つかり、水の中を潜った者はおそれて引き返した。やがてしばらくのあいだ光彩が水を照らし、波浪が沸きかえって、こうして剣は失われた。雷華は「父上が姿を変えて去るといったのも、張公がけっきょく合わさると論じたのも、このことの予兆だったのか!」と嘆いた。