東軍v.s.西軍

僕がもし中国史オタになってなかったら、おそらく日本の戦国オタになってたと思います。
だからたまには日本の戦国の話でもしましょう。
応仁・文明の乱(1467年〜1477年)は10年で終わりましたが、東軍西軍の対立図式は意外と尾を引いているという話。
細川氏(東軍)v.s.大内氏(西軍)
16世紀に入っても、細川氏は依然畿内および四国に勢力を張っています。
山名氏の衰退後、西軍の頭を張ったのが周防の大内氏。中国地方と九州北部、瀬戸内・四国の一部も勢力圏としました。
1511年、細川澄元×大内義興の両軍が、京都船岡山で激突。
1523年、細川氏の遣明使と大内氏の遣明使とが、寧波で衝突。
この二大勢力の直接の激突がなくなったのは、山陰で尼子氏が台頭して大内氏も余裕がなくなり、細川氏も家臣がたびたび離反してこちらも支離滅裂になっていったからです。
堺と山口の対立ということでは、もっと後まで続いてるともいえます。

細川氏(東軍)v.s.六角氏(西軍)
南近江六角氏は戦国末期に織田信長によってわずか2週間で踏みつぶされたため、もとから弱小!とか思ってませんか?
畿内の雄・細川氏(&足利将軍)あいてに1492年、1499年、1503年、…。戦国初期はけっこうガチンコしてるんですよ。
一国一城(家臣団の城下集住)や楽市のはしりは六角氏といわれているし、舐められた存在ではありません。

紀伊畠山氏(東軍)v.s.河内畠山氏(西軍)
応仁の乱の発端のひとつともなった両畠山氏の抗争ですが、これは畠山稙長が高屋城を奪回する1520年まで続いてますね。これこそ泥沼というにふさわしい抗争です。