吐渾

吐谷渾は663年に吐蕃に滅ぼされるが、その部衆は各地に離散している。晩唐から五代・遼のころには「吐渾」と呼ばれていて、オルドスや山西北部あたりに散居していたらしい。
『新五代史』四夷附録は、次のように言っている。
「吐渾は、もとは吐谷渾と号し、ある人は乞伏乾帰の苗裔であると言っている。後魏より以来、名は中国に見られ、青海の上に住んでいた。唐の至徳(ママ)年間に吐蕃に攻められて、部族は分散し、その内附した者については、唐は河西に行かせて住まわせた。その大姓には慕容・拓抜・赫連らの一族があった。懿宗のとき、首領の赫連鐸が陰山府都督となり、ともに龐勛を討って、功により大同軍節度使に任ぜられた。晋王(李克用)に破れて、その部族はますます衰微し、蔚州の界中に散居するようになった。」