樹の下に寝てたから木下

中国正史の日本伝の中でも最もおかしな記述で知られている『明史』日本伝で、やっぱり一番ツッコミどころのあるところはここだよね。

日本にはもともと王があり、その下で関白と称する者が最も尊く、ときに山城州の首領の信長がこれになった。たまたま猟に出て、一人の樹下に寝ている者と出会い、驚いて起きあがったところを衝突したので、捕らえてこれを詰問した。平秀吉と名乗り、薩摩州人の奴で、頑健ですばしっこく、口がうまかった。信長はこれを喜んで、馬を牧させ、名を木下人といった。後にだんだん重用されるようになり、信長のために画策して、二十余州を奪い併せ、摂津鎮守大将となった。参謀に阿奇支という者がおり、罪を得たので、信長は秀吉に兵を率いてこれを討つよう命じた。とつぜん信長はその配下の明智に殺された。秀吉は阿奇支を攻め滅ぼすと、変を聞いて、部将の行長らとともに勝利に乗じ兵を返して明智を殺し、威名はますます振るった。まもなく信長の三子を廃し、関白を僭称し、信長の部衆をことごとく所有した。時に万暦十四年(1586年)のことであった。それからますます軍を支配し、六十六州を征服し、また琉球・呂宋・暹羅・仏郎機の諸国を威力で脅し、みな貢物を奉じさせた。国王のいる山城を大閣と改め、広い城郭を築き、宮殿を建て、その楼閣は九重にいたるものがあり、婦女や珍宝をその中におさめた。その法を用いることは厳格で、軍が行くところ進むことはあっても退くことはなく、違反するものは子や婿といえども必ず殺し、このため向かうところ敵がなかった。文禄と改元し、中国を侵し、朝鮮を滅ぼそうと考えた。往時の汪直の遺党を召し出して問い、唐人が倭を虎のように恐れることを知って、心はますます驕った。ますます多くの武具を作らせ、船艦を修繕し、その部下とともに謀って、中国の北京に入るのに朝鮮の人を用いて先導とさせ、浙江・福建の沿海郡県に入るのに唐人を用いて先導としようとした。琉球にその情報が漏れるのを心配して、入貢させなかった。

信長が山城の人で、秀吉が薩摩の人だったり。
信長が関白になったとか、秀吉が早いうちに平姓を名乗ったとか。
樹の下に寝てたから木下とか、誰がうまいこと言えと…。
光秀が阿奇支と明智のふたりに分裂していたり。
秀吉の中国大返しになぜか行長(たぶん小西行長)登場。
信長の三子って、信忠が入ってないか?とか。
琉球や呂宋(ルソン)はともかく、暹羅(タイ)や仏郎機(ポルトガル)を脅したとか。
ここらへんに詳しい人には、ツッコミどころだらけだろう。ただこれは叩きやすいトンデモを叩いているわけで、正史の日本伝がみなこのレベルってわけじゃないよ。