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【誌蓋】無。
【誌陽】
晉故中書侍郎穎川穎陰荀君之墓。
君以元康五年七月乙丑朔八日丙申歳在乙卯疾病
卒。君樂平府君之第二子,時年五十。先祖世,安措于穎
川穎陰縣之北。其年七月十二日,大雨過常,舊墓下濕,
崩壞者多。聖諸嘉悼,愍其貧約,特賜墓田一頃,錢十五
萬,以供葬事。是以別安措於河南洛陽縣之東,陪附晉
文帝陵道之右。其年十月戊午朔廿二日庚辰葬。寫詔
書如左:
詔中書侍郎荀岳,體量弘簡,思識通濟,不幸喪亡,甚悼
愍之。其賜錢十萬以供喪事。
詔故中書侍郎荀岳,忠正簡誠,秉心不苟,早喪才志,既
愍惜之。聞其家居貧約,喪葬無資,脩素至此,又可嘉悼
也。舊墓遇水,欲於此下權葬。其賜葬地一頃,錢十五萬,
以供葬事。」皇帝聞中書侍郎荀岳卒,遣謁者戴璿弔。
皇帝遣謁者戴璿以少牢祭具祠故中書侍郎荀岳。
尚饗!【誌左側】
隱司徒左西曹掾和夫卒。
子男瓊,年八,字華孫。【誌陰】
岳字於伯,小字異姓,以正始七年正月八日癸未生於
譙郡府丞官舍。以咸寧二年七月本郡功曹史在職,廿
四日還家。十月舉孝不行。三年七月司徒府辟。四年二
月十九日戊午應命署郎徐州田曹屬。太康元年十二
月舉秀才,二年正月廿日被戊戌詔書除中郎。三年八
月廿七日庚戌詔書除太子舍人。六年十月七日辛巳
除尚書左中兵郎。七年七月十七日丁卯疾病去職,被
壬申詔書除中郎。十年五月十七日除屯騎始平王司
馬。十二月廿七日除中郎參平南將軍楚王軍事。永熙
元年九月除參鎮南將軍事。永平元年二月三日除河
内山陽令,元康元年三月廿五日到官。三年五月四日
除領軍將軍長史,六月六日拜。四年五月五日除中書
侍郎,六月二日拜。
夫人劉,年卌五,東萊劉仲雄之女。息女柔,字徽音,年廿,
適樂陵石庶祖。次息男隱,字嗚鶴,年十九。娶琅耶王士
瑋女。次女和,字韶音,年十七,適穎川許昌陳敬祖三曰
婦。次女恭,字惠音,年十四,適弘農楊士産。拜時晩生二
女皆不育。【誌右側】
夫人劉氏,年五十四,字簡訓。永安元年歳在甲子三月
十六日癸丑卒于司徒府。乙卯殯。其年多故,四月十八
日乙酉附葬。北京圖書館藏拓
荀岳は、字を於伯、小字を異姓といい、穎川郡穎陰県の人。楽平府君の次男。魏の正始七年(246)正月八日に譙郡府丞の官舎で生まれた。晋の咸寧二年(276)七月、穎川郡功曹史の職にあったが、二十四日に辞職して家に帰った。三年(277)七月、司徒府に召された。四年(278)二月十九日、郎に任ぜられ、徐州田曹に属した。太康元年(280)十二月、秀才に挙げられた。二年(281)正月二十日、戊戌の詔書により中郎に任ぜられた。三年(282)八月二十七日、庚戌の詔書により太子舎人に任ぜられた。六年(285)十月七日、尚書左中兵郎に任ぜられた。七年(286)七月十七日、病のため職を去り、壬申の詔書により中郎に任ぜられた。十年(289)五月十七日、屯騎始平王司馬に任ぜられた。十二月二十七日、中郎参平南将軍楚王軍事に任ぜられた。永熙元年(290)九月、参鎮南将軍事に任ぜられた。永平元年(291)二月三日、河内郡山陽県令に任ぜられた。元康元年(291)三月二十五日、官についた。三年(293)五月四日に領軍将軍長史に任ぜられ、六月六日に受けた。四年(294)五月五日に中書侍郎に任ぜられ、六月二日に受けた。五年(295)七月八日、病のため亡くなった。
夫人の劉氏は、字を簡訓といい、東莱の劉仲雄のむすめ。永安元年(304)三月十六日に司徒府で亡くなった。251年生まれ。
むすめの荀柔は、字を徽音といい、楽陵の石庶祖にとついだ。276年生まれ。
次の息子の荀隠は、字を嗚鶴といい、琅邪の王士瑋のむすめをめとった。277年生まれ。
次のむすめの荀和は、字を韶音といい、穎川郡許昌県の陳敬祖の三番目の妻となった。279年生まれ。
次のむすめの荀恭は、字を恵音といい、弘農の楊士産にとついだ。282年生まれ。
ときに晩年に生まれたふたりのむすめはともに育たなかった。
荀岳(246-295)は、三国ファンご存じの荀彧・荀攸ら穎川荀氏の一族である。荀岳の父の楽平府君は、『世説新語』注から楽安太守の荀昕とされている。荀昕は正史に見えず、荀衢の子の荀祈(字は伯旗、官は済陰太守にいたる)のことともいわれているが、定かでない。ちなみに荀岳の子の荀隠(字は明鶴とも)には、陸雲をやりこめた挿話が残っている(『世説新語』排調篇)。
穎川荀氏は、荀子(荀況)の子孫とされ、後漢の荀淑の代から興隆をはじめ、その子世代の荀倹・荀緄・荀靖・荀燾・荀汪・荀爽・荀肅・荀專の荀氏八龍が知られた。孫・ひ孫世代の荀彧・荀攸が後漢末に活躍し、魏晋にも荀邈・荀崧・荀羨・荀組・荀藩・荀闓らが歴史の舞台に登場した。南朝でも荀伯子・荀万秋・荀匠・荀済ら顕位に上る者が幾人か出たが、かつての勢威はなく徐々に衰退していったものと思われる。