宇文氏同州考

 『周書』孝閔帝紀に「大統八年,生於同州官舍」とある。宇文泰の三男の孝閔帝は西暦542年に「同州の官舎」で生まれた。同書の武帝紀に「大統九年,生於同州」とある。宇文泰の四男の武帝も543年に「同州」で生まれている。同じく宣帝紀に「武成元年,生於同州」とある。武帝の子の宣帝もまた559年に「同州」で生まれているのである。北周の宇文氏にとって同州とはなんだったのか。

 明帝紀の二年九月の条に「幸同州,過故宅,賦詩」とある。同州にどうやら北周宇文氏の「故宅」があったらしい。

 文帝紀下の魏廃帝三年春正月の条に「華州為同州」とあるから、正確には554年1月以前の同州は「華州」とするべきだろう。華州(=同州)は現在の陝西省大荔県にあたる地に州治を置いていた。西魏北周の都である長安からは東北東に130kmほどの距離がある。宇文泰は華州の刺史になったことはないが、西魏の大統年間に数度華州に駐屯した記事が文帝紀下に見える。華州は対東魏の前線を支える後詰めの軍事基地として重要な位置にあった。宇文泰はそのときに「故宅」を構え、妻たちを呼び、子を儲けたものであろうか。しかし宇文泰にとって、華州という土地にさしたるこだわりがあったようには思われない。

 武帝紀や宣帝紀には武帝や宣帝がたびたび同州に行幸している記事が見られる。宣帝紀の大象二年三月乙未の条に「改同州宮為天成宮」とあるから、北周の後期には同州に離宮まで建てていたらしい。同州へのこだわりは、同州を生地とした北周の諸帝たちが自然に抱いたものであろう。東方に対する示威や督戦の意味があったとしても、それは副次的なものに思われる。

 また同州を宇文泰や宇文護にとっての「霸府」と位置づけるような議論もあるが、より慎重でありたいと思う。

wenku.so.com

安大簡「楚史」の語る楚の先君

 安徽大学蔵戦国竹簡「楚史類」については、ここが分かりやすかったのでメモ。
https://kknews.cc/n/jlxenvl.html

 安大簡「楚史」が『史記』楚世家などの伝世文献などと大きく違っているのは6点。

1.老童(=巻章)は顓頊の子であって、称の子ではない。老童には四子があって、重・黎・呉・韋の4人。『史記』楚世家では重黎・呉回とふたりの兄弟にされている。
2.黎氏が祝融であって、重・呉・回はそうではない。
3.「陸終」という人はおらず、伝世文献は祝融(黎)を陸終と誤ったものである。
4.季連とは穴熊(穴酓)のことである。
5.附沮一代は存在しない。
6.穴熊が熊麗を生んでおり、世系の中断は存在しない。『史記』楚世家の鬻熊とは穴熊のことである。

吉備真備が書いた墓誌

 吉備真備遣唐使で入唐留学していたときに書いたとかいう李訓墓誌を起こしてみました。ネットに落ちてた画像を参考にしたので、字釈はだいぶ間違っているかもしれません。

大唐故鴻臚寺丞李君墓誌銘并序
公諱訓字恒出自隴西為天下著姓曾祖亮随太
子洗馬祖知順為右千牛事
文皇帝父元恭大理少卿兼吏部侍郎君少有異
操長而介立好學所以觀古能文不以曜世故士
友重之而時人不測也弱冠以輩脚調補陳留尉
來赴陳留而吏部君仁君至性自天柴毀骨立禮
非旺帛情豈苴麻惟是哀心感傷行路服闋歴左
率府録事參軍太子通事舍人衛尉主薄鴻臚寺
丞以有道之時當用人之代驥之方𩣁龍泉在割
豈不偉歟而天与其才不与其壽梁在廈而始𢬵
舟□流而邃□嗚呼子𥤱言命盖知之矣享年五
十有二開元廿二年六月廿日以疾終於河南聖
善寺之別院即以其月廿五日搉殯于洛陽感德
郷之原夫施以書□□以誄行乃勒石佐銘云
洪惟夫子灼灼其芳□之経世言而有章亦既來
任休聞烈光如何不□弃代云亡其引也盖嬪也
□紀乎□崗
  秘書丞褚思光文  日本國朝臣備書

 墓誌から読み取れること
◎李訓は字(あざな)は恒。隴西李氏と称しています。
◎曾祖父の李亮は隋の太子洗馬とされています。
◎祖父の李知順は右千牛(右千牛衛将軍?)として文皇帝(唐の太宗李世民)に仕えました。
◎父の李元恭は大理少卿兼吏部侍郎をつとめました。
◎李訓の初任は陳留県(現在の河南省開封市)の尉(武官)です。
◎父母の服喪で「骨立」つまで痩せ衰えて自身の身体を「毀」つのは、「礼(禮)」の規定する孝行のパターンでした。
◎李訓は左率府録事参軍・太子通事舎人・衛尉主薄・鴻臚寺丞を歴任。通事舎人は通訳、鴻臚寺丞は外交官なので、そういう方面の才能を持っていたのでしょう。
◎「天与其才不与其壽」(天はかれに才能を与えたが、寿命は与えなかった)。現代でも使えそうな美辞麗句です。
◎享年は五十二。開元二十二年六月二十日に河南(洛陽)聖善寺の別院で病没しました。ということは、西暦683年生まれで、734年の死去です。
◎同年六月二十五日、洛陽感徳郷で殯(もがり)がおこなわれました。
◎最後の行に見えるように、秘書丞の褚思光が墓誌の文を選び、日本国の朝臣の備が清書して、それをもとに墓誌が彫られたわけですね。ちなみに褚思光は張懐瓘「文字論」に名前が見える人物ですが、正史の両唐書には出てこないマイナー人物です。

 蛇足
◎中国ではこの墓誌はほぼ注目されていません。吉備真備遣唐使への興味も低いですし、誌主の李訓も中級の官僚でネームバリューがあまりありませんで。唐代の墓誌の出土数自体が半端ないもので、1992年に発刊された『唐代墓誌彙編』が3600件あまり、2001年に発刊された『唐代墓誌彙編続集』が1564件の唐代の墓誌を収録しています。21世紀になってからも、さらに出土は続いていて、歴史好きには井真成墓誌や祢軍墓誌の発見のニュースを覚えておられるかたもいるでしょう。そういう世界なので、日本の東洋史研究者がいなければ、もっと長いあいだ顧みられなかったかもしれません。

Wikipedia記事が初版より劣化する理由(再掲)

 悪意や荒らしが原因とはかぎりません。また質の悪い編集者が原因とも限りません。練達の編集者でも誤りを犯すことはあります。人間だもの。

 

 記事内部で使われている術語や表現が分かりにくいと思うのか、ごてごてと修飾を加えて簡潔さを損なったり、かえって誤読を誘うような表現に変えてしまったり、完全な誤りに変えてしまったりします。

 

 Wikipedia内の記事同士でのつじつま合わせをしようとして、かえって誤りを拡散するケースもあります。ほか色々ありますが、だいたいは原典にあたって査読していないのが、原因です。

 

 亭主はWikipedianとしてはスターター(=初版記事を書きたがる人)に属しているので、いろいろ恨み辛みがあるとかないとか。

睡虎地秦墓竹簡「編年記」と『史記』秦本紀

睡虎地秦墓竹簡「編年記」については、以前メモっておいたことがあるわけですが、
https://nagaichi.hatenablog.com/entry/20111212/p1
史記』秦本紀と合わせ読んでみようというだけの企画です。
1年ごとに西暦、秦簡「編年記」記事、『史記』秦本紀記事の順序で淡々と並べているだけなので、何が面白いの?とかは聞かないでください。

続きを読む

ブックマークカウンターをつけてみた。

 全くもって今さらなんですが、
 はてなダイアリーからはてなブログに移行するときに
「記事についたコメントや、はてなスターはてなブックマークを、すべてはてなブログに移行できます」
https://help.hatenablog.com/entry/import

みたいな説明がされていました。
 少なくともブックマークの移行についてはうまく行ってないよということを示すために、ブックマークカウンターを二つつけてみました。

『古本竹書紀年』魏紀をテキトーに読みやすくしてみる。

▽『竹書紀年』は晋代に戦国時代の魏王の墓から出土したとされる紀年体史書です。
▽宋代のころに散逸してしまって、近代に下って各種文献の引用を集めて再構成されました。
▽『竹書紀年』には古本と新本があって、古本のほうが本物とされているので、古本のほうを。面白そうな魏紀の部分だけを今回は紹介します。夏紀・殷紀・周紀・晋紀については、またの機会があればやりましょう。面倒くさいので注釈とかは省きます。どこの文献から引用されたかは、いちおうつけました。
▽「三晋」は趙・魏・韓の三国。「梁」は魏のこと。「邯鄲」は趙のこと。「鄭」はほぼ韓のことですが、一部に春秋の鄭や地名としての新鄭を指しているところがあります。
▽襄王十二年の「疾西風」の解釈は諸説あるので、無理に訳さず、放置しました。「疾」は「樗里疾」のことという説もあります。
▽魏の歴史書なので、魏からみた視点で書かれているのは言うまでもなく。
▽『史記』魏世家と読み合わせてみるのをオススメします。
▽『史記』の記述と異なる諸侯の号とか、六国年表と異なる紀年とかを楽しむのが乙です。では。

続きを読む