秦末の「楚人」意識

史記項羽本紀に范増の発言として見える「楚の南公曰く『楚は三戸といえども、秦を亡ぼすは必ず楚ならん』と」。予言だか後付けだか知れないが、はたしてこの謡言は実現した。
実際に秦を滅ぼしたのは、楚のノイエラントの連中だ。

陳勝は陽城(現・河南省登封市)の人。
呉広は陽夏(現・河南省太康県)の人。
項羽は下相(現・江蘇省宿遷市)の人。
劉邦は沛豊邑中陽里(現・江蘇省徐州市豊県)の人。

かれらは戦国も下った時期に楚領となった東方地域の出身者たちだ。楚の古くからの領土である湖北・湖南の出身者は秦末での活躍が見られない。
戦国の楚は西方の秦の圧迫を受けて紀元前278年に湖北荊州の郢を奪われ、河南淮陽の陳に遷都しており、さらには紀元前241年に安徽寿県の寿春に遷都している。代わりにというわけではないが、楚は紀元前286年に宋を滅ぼし、紀元前256年に魯を滅ぼして東方での領土は拡大している。むろん西方での失地を補うに足りるものではない。

秦末の反乱の立役者たちが「楚人」だとするなら、直近の父祖の代からはじめて楚人意識を養ってきたにすぎないはずだ。陳勝呉広は出身地からみて「魏人」でもおかしくないし、劉邦にいたっては『史記集解』に祖先が魏に従っていたことが明記されている。楚との縁故が強いのは楚の将軍を祖にもつ項羽のみだ。

史記』の謡言に惑わされて当時の楚人意識を過大評価しているか、あるいは全く逆に楚人意識は考える以上に根深いものなのかもしれない。