コルチン部と後金

相変わらずたわごとだが、モンゴルのコルチン(科爾沁)部が後金(清)の初期の勃興に果たした役割はたいそう大きいように思える。単なる愛新覚羅家の姻戚ってだけでなく、モンゴル・ハルハ諸部とかに与えた心理的影響も大きい気がしている。
でもさ、マングス(莽古斯)とかミンアン(明安)とかオーバ(奧巴)とか、コルチン部の連中が中国史の概説書に出てくることは当面なさそうだよね。
どうせ暴言だから、さらに言うけど、後金がチャハルから北元国璽を奪った事件も、対内宣伝的にはともかく、対外的にはそんな大きな影響あったのか疑問。国璽ひとつでモンゴルがどうにかなるんだったら、何も言わずとチャハルが天下取ってるでしょ?
チャハル部も、もともと西方(チベット)への志向があって、それを後背地たる大興安嶺の東側から後金に突かれてしまった。
何が言いたいんだか分からない駄文だが、時宜というのはあるんだなあというお話。