詭弁その1

こういう論法はどうだろう。
およそ1900年前には、列島は倭国大乱の時代であって、人々は環濠を掘り、防柵で囲って襲撃に備えた。現代の地理感覚でいえば、隣の市町村と争っているに近い。しかし、現代に隣町からの襲撃におびえる人が存在するだろうか?
およそ500年前には、列島は戦国時代であって、人々は城を築き、槍や甲冑を磨き、火縄銃を購入して襲撃に備えた。現代の地理感覚でいえば、隣の都道府県と争っているに近い。しかし、現代に隣県からの襲撃におびえる人が存在するだろうか?
さて現代、列島は米国の戦争に加担しながらも、コップの中の平和を享受している。イージス艦や90式戦車を装備し、ミサイル防衛網を構築して襲撃に備えているらしい。現代の地理感覚でいえば、隣の半島や大陸と争っているに近い。しかし、数百年ののち、隣の大陸からの襲撃におびえる人が存在するだろうか?
なぜ、1900年前の人々は隣町からの襲撃におびえ、現代の人々はそうでないのか、それは現代の社会がより発展し、統合されているからである。
なぜ、500年前の人々は隣県からの襲撃におびえ、現代の人々はそうでないのか、それは現代の社会がより発展し、統合されているからである。
なぜ、現代の人々は隣国からの襲撃におびえ、未来の人々はそうでないのか、それは未来の社会がより発展し、統合されていると想定されるからである。
社会の発展がどこかで退行でもしない限り、この想定はいずれ現実のものとなるだろう。歴史を退行させない限り、グローバリズムは不可避である。
したり顔で、しかも現実派ぶって「人間がいる限り戦争はなくならない」とうそぶく人々を僕は信用しない。かれらは今ここの現実の一部しか見ず、長大な歴史を見ていない。

クラウゼヴィッツ曰く「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」。
政治とは、集団間や階層間の利害の調整である。戦争は、その調整の一手段として用いられてきた。しかし、それもいずれ不要となるだろう。人類社会全体の利害を調整するのに、戦争は効率的な手段でないからだ。

あなたに聞きたい。あなたは隣人の襲撃におびえますか?