笑いと差別と2

世界のナベアツの悲しみと楽しみ(評論家・山崎元の「王様の耳はロバの耳!」)

ナベアツによる「アホ」の表現はある種の人にはたまらないだろう。
ある種の人とは、たとえば、「ナベアツのアホ」を表情に持った障害児を持つ親だ。

あのー、それ、普通にいじめなんですけど(Thirのはてな日記)

もはや言わなくても分かるとおり、今回のニコニコ大会議における盛り上がりは、いじめと全く同じ構造が引き起こしたものにすぎない。つまり、一人の人間を外部に追いやることで、内部が強いまとまり・コミュニケーション性を有するということが、今回の会議にも見られるのである。

これは「斬新すぎるコミュニケーションの現場」ではない。むしろ「残酷すぎるコミュニケーションの現場」である。会議に参加し、あるいはネット中継を見て、この現場で「笑った」人間は、一人の人間を犠牲にすることで自らの地位を得た。笑った人間は、一人の人間を集団から排除し、そして殺した。

相変わらずグルグルしてるので、以下は取り留めもない話になるよ。
ある種の「笑い」(嗤い)に対する強烈な不快感を表明するのは、笑われた本人よりも周辺の人間だったりするよね。直接的に差別されたり、虐められたりしたわけではない人間から、反発があらわれてくる。それはね、人間が「仮定法」を使えるからなんだよ。他者のことを自分に引き寄せてものを考えることができる動物だからだよ。

むかしさ、水子の霊がどうとかいう詐欺的霊感商法に関連してこういう話を聞いたんだ。水子の霊のたたりと称する言説では、水子の霊とやらに「生まれてきたかった」という怨みを語らせるわけなんだけど。実際には生まれていない胎児が、もし生まれていたら…という思考をするには、仮定法が必要で、仮定法を使用する人間の発達段階は2、3歳にならないと無理だから、水子の霊が仮にいたとしても「生まれてきたかった」なんて言うわけはないっていうんだ。厨房だった僕はこの論法に感心したものだね。

仮定法を使ってものを考えることができるってのは、じつは高度なことなんで、ほとんどの動物はそういうことができない。ましてや他者のことを我がことのように考えるなんて作法は人間様の特権みたいなものだ。内省とか思いやりとかの思考はとても高度な感情であるし、ヒトが誇ってもいいことなんだよ。

たとえばネアンデルタール人になってはじめて死者に花をそなえ、働けなくなった人間を社会全体で養うというような風習があらわれたと、現代の考古学は語っている。社会の摂理は弱肉強食・適者生存とうそぶく社会ダーウィニズムやその亜流のゲーム理論は、ネアンデルタール人より実は低級なんじゃないかと偶に思うんだ。

で、話は笑いに戻るけどさ。笑いは緊張の緩和であり、逃避であり、あるいは周囲の模倣であるわけだから、誰しも他虐的な笑いをつい浮かべてしまうことはあると思うんだ。それを即座に責めるのは酷かもね。でもね、他者のことを我がことのように考えるという人間様の特権を思い出して、自分の言動を内省してみたりするのも、万物の霊長たるヒトの矜持にかなっていて、なかなかオツなもんじゃないかい?