『ジャガイモのきた道』

山本紀夫『ジャガイモのきた道−文明・飢饉・戦争』(岩波新書
メモメモ。

  • ジャガイモは、小麦・トウモロコシ・コメに次いで栽培面積世界第4位の作物。
  • 中央アンデスにみられるジャガイモの野生種は有毒で実も小さい。
  • ジャガイモの毒抜き技術の開発がジャガイモの栽培の契機。
  • 毒抜きをし、乾燥したジャガイモは「チューニョ」と呼ばれ、腐りやすく貯蔵や輸送に不便なジャガイモの欠点を克服した。
  • 野生種を栽培種に変えるにあたって、より毒性が低く、より実の大きい品種を選択していく数百年・数千年にわたる努力が払われた。
  • はじめの栽培種は2倍体のジャガイモだったが、やがて実の大きい4倍体のイモが現れ、3倍体・5倍体のイモも栽培されるようになった。
  • かつては穀物農耕が都市の発生や文明の形成に必須な条件と考えられてきた。
  • アンデス文明はトウモロコシを中心とする農耕が生んだとするのが定説であった。しかし最新の成果では、古代のチャビンやティワナクの人々は寒冷な高地に適したジャガイモを主食にしていたと考えられる。
  • インカ帝国を支えた食糧基盤もジャガイモ。トウモロコシはむしろ酒作りに使われた儀礼的作物。
  • ヨーロッパでは、ジャガイモは「有毒」「聖書に登場しない食物」「悪魔の植物」という偏見により、なかなか広まらなかった。
  • 1570年前後にジャガイモはスペインに上陸。17世紀にはフランス・ドイツに渡る。ジャガイモの栽培が拡大したのは戦争と飢饉のため。フランスのパルマンティエ、ドイツのフリードリヒ大王らが栽培の発展に貢献した。
  • イギリスでは19世紀には労働者階級の食べ物。ホット・ポテト、そしてフィッシュ・アンド・チップスの普及。
  • アイルランドではジャガイモの栽培により100年足らずで320万の人口が820万人に増加。しかし1846年から51年にかけてのジャガイモ病害による大飢饉で、人口が激減。多くの人々が新大陸に渡った。
  • ネパールのソル・クンブ地方でもジャガイモ革命。
  • 日本には江戸時代に伝来。長崎に上陸したのち蝦夷(北海道)に渡った。
  • 高野長英が『救荒二物考』を著し、救荒作物としてソバとジャガイモを紹介。
  • サツマイモが西日本に広まったのに対して、ジャガイモは東日本に広まった。
  • 1907年、川田龍吉男爵がアメリカから種芋を取り寄せ、その中の「アイリッシュコブラー」という品種が北海道の風土に合っていることを発見。以後、この「男爵イモ」の栽培が広がった。
  • 明治時代の北海道でジャガイモデンプンの生産が広まる。「デンプンブーム」、「デンプン景気」。
  • カレーライス、肉じゃが、コロッケなどの新しい料理がジャガイモの普及を後押し。
  • 戦争によりジャガイモやサツマイモはコメに代わる代用食に。戦中世代にはこの代用食のことを思い出してイモに対する偏見をもつ人も少なくない。
  • アンデスの高地では、現代でも高度差を生かした伝統的なジャガイモ農耕がおこなわれている。自給自足的で決して生産性は高くない。都市との格差は広がっているが、改良品種や化学肥料を導入するのはむずかしい。
  • ジャガイモはデンプンだけでなく、ビタミンCやミネラルを豊富に含み、決して栄養的に劣った食物ではない。また単位重量あたりのカロリーも穀類と比べてむしろ低い。
  • アフリカでも現在ジャガイモの栽培が広がろうとしている。
  • 食糧自給率の低い日本でもジャガイモなどの芋類の長所を見直し、将来に備えるべきではないか。