中国史料にみえる寧波の乱

 たとえば次は胡宗憲『籌海図編』巻二
 大内義興が「西海道大内誼興」だったり、細川高国が「南海道細川髙國」だったりするのが、微笑ましい。

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 次は張爕『東西洋考』巻六
 細川高国が「右京兆大夫髙」、大内義興が「左京兆大夫内藝興」と、さらにひどいことになっている。

https://www.kanripo.org/text/KR2k0145/006?query=%E5%AE%8B%E7%B4%A0%E5%8D%BF#006-5a

はじめての太上皇

 『史記』秦始皇本紀始皇二十六年条に「追尊莊襄王為太上皇」とあるのが、太上皇のはじまりである。始皇二十六年(紀元前221年)に秦の始皇帝の父である荘襄王が太上皇に死後追尊されたのである。近年出土した松柏漢牘「葉書」に荘襄王のことが「大上皇帝」と書かれ、胡家草場漢簡「歳紀」に「泰上皇」と書かれていたことで、やや違う表現ながらこれが裏づけられたといえそうだ。
 なお史上二番目の太上皇は、漢の高祖劉邦の父太公(一説に名を執嘉)で、『史記』高祖本紀高祖六年条や『漢書』高帝紀高帝六年条にそのことが見える。高祖六年(紀元前201年)のことである。こちらは生前の尊号である。

松柏漢簡「葉書」

 一部に松柏漢簡「編年記」といわれていたものは、いまでは「葉書」(叶书、諜書)と呼ばれていて、わずか1枚の木牘であるらしい。

昭襄王五十六年死。
大上皇帝三年死。
始皇帝卅七年死。
胡胲三年死。
漢高皇帝十二年死。
孝惠皇帝七年死。
呂大后八年死。其七年,發卒擊南越尉它。八年死,賜戶爵各一級。
孝文皇帝廿三年死。
孝景皇帝十六年死。
今皇帝七年。

https://zhuanlan.zhihu.com/p/693715830
 睡虎地秦簡「編年記」と比べると、だいぶショボい内容だが、秦の荘襄王が太上皇帝と扱われているところとか、二世胡亥が「胡胲」になってるところがちょっと面白い。漢の呂太后七年(紀元前181年)に南越王趙佗を討っているのは、呂太后が隆慮侯竈に南越国を討たせたときのことらしい。

「無忌」は「ぶき」と読むかもしれない

 初唐の長孫無忌(長孫无忌、ちょうそんむき)という人は、中国史ではそこそこ有名な人である。また戦国時代の魏の信陵君の諱は無忌という。またあまり有名ではないが、後漢に伏無忌や斉王劉無忌、東晋に何無忌という人物がいる。さらに知名度の低い人物もいるが、本論ではないので略す。
 ところで「無」(「无」も同じ)の呉音は「ム」、漢音は「ブ」である。「忌」の呉音は「ゴ」、漢音は「キ」である。ご不審の向きには漢和辞典でご確認いただきたい。日本語における中国人名は漢音で読むのが通例である。ということは、「無忌」は「ぶき」と読むのが正当かもしれない。ただ多くの日本語文献で「無忌」には「むき」とルビが振ってある。言葉は慣用の読みが畢竟強いので、正しいとか正しくないとか言っても詮無いことではある。いまどき「消耗」を正しく「しょうこう」と読む人があまりいないように。

「峠」字が国字ではない説

『唐大薦福寺故寺主翻經大德法藏和尚傳』
「由是中宗睿宗皆請為菩薩戒師。崆之遺美是追」

https://www.kanripo.org/text/KR6r0044/001?query=%E5%B3%A0#001-0284b
テキストは康居国出身の訳経僧「法蔵和尚」の伝記です。書いたのは新羅の崔致遠という人らしいですけど。法蔵のいた大薦福寺は唐の長安の開化坊にあった寺でして。唐の中宗や睿宗も登場してます。「峠」字が唐もしくは新羅にあった…説といきたいですが、影印じゃない活字のテキストなのが難。取りあえず深掘りするには役者不足なので半端に投げます。

また次のような説も。

「木林森」のような類

小ネタだが、以下は環境によっては文字化けする。
木林森
火炎焱燚
土𪢴
金鑫𨰻
水沝淼㵘
山屾𡷈
心𢗰惢
口吅品㗊𠾅
足踀𨆬
女奻姦
男𤲶
王玨
日昍晶𣊭𪱈
月朋𦜳朤
田畕畾𤳳
風䬕飍𩙡
糸絲
虫蟲
酉𬪪
首𩠬
馬騳驫𩧢
魚䲆鱻䲜
鳥𪅝𪈼
歯𪙹
龍龖龘𪚥