すべての道はローマに通ず

帝政ローマのガラス玉 京都の古墳、国内最古級 - 47NEWS(よんななニュース)
http://www.47news.jp/CN/201206/CN2012062101001579.html
いまさらながら、京都の5世紀前半の古墳からローマ帝国領内で製造されたガラス玉が発見されたというニュースについてシロウト亭主のコメントです。
はるばるローマ帝国領のエジプトだかシリアだかから、このガラス玉が倭国にやってくるにあたって、どういうルートを通ったのかについて考えてしまいました。愚見を披露するなら、まず江南(東晋か劉宋か)を経由した可能性が高いと思います。
このころの東アジアは北の「(五胡/北魏)−高句麗」と、南の「(東晋/劉宋)−百済新羅倭国」の冊封関係で結ばれた二大陣営の対立(実際はもう少し複雑ですが)によって展開しているとも言えるわけで、このガラス玉が華北朝鮮半島北部を通った可能性はかなり低いと思います。
以下は江南を経由したという前提でものを言いますが、江南から日本列島に入るルートはだいたい3ルートが想定されます。
1.江南から朝鮮半島南部を経由して九州に入るルート
2.江南から直接に東シナ海を横断して九州に入るルート
3.福建から台湾や南西諸島を島づたいに北上して九州に入るルート
この中でも朝鮮半島南部をいったん経由するルートが比較的安全ではありました。古代の航海技術ではつねに陸が見えるのと、見えないのとでは大違いです。劉裕の北伐で南燕を滅ぼして以降は、山東半島を経由地とすることもできましたし。しかし、もうふたつのルートも考えられないわけではありません。
ならばローマ帝国から江南まではどういうルートが考えられるでしょうか。
A.インド洋・マラッカ海峡南シナ海を経由する「海のシルクロード
がまずは有力になってきます。法顕なども帰路にこの海路を利用してますね。
しかし東晋南朝に陸のシルクロードがなかったのかというと、実はありまして。
B.西域南道と吐谷渾・仇池を経由するルート
C.ビルマ雲南を経由するルート(西南シルクロード
なんかも考えられるわけです。とくにBのルートは世間で知られてないよな……長安と河西回廊が北朝に占領されていたために発展した代替ルートです。
というわけで、どこをどう通ってきたか知らないけど、ガラス玉ひとつで想像は広がるよね、という話なのです。