仇由

仇由は春秋時代の国名で、仇猶、厹由、仇首、仇繇、仇吾などとも表記される。その故地は現在の山西省孟県の東北に位置する。『韓非子』説林下に「智伯が仇由を討とうとしたが、道が難路で通じなかった。そこで大鍾を鋳て仇由の君に贈ることとした」という。『淮南子』精神訓に「仇由は大鍾の賄賂を貪ったためにその国を滅ぼした」といい、高誘注に「仇由は晋に近い狄の国である」という。『史記』樗里子甘茂列伝に「知伯は仇猶を討つために、これに広車を贈った」といい、裴駰『史記集解』は「許慎が仇猶は夷狄の国であると言っている」という。『戦国策』西周策に「むかし智伯が厹由を討とうとして、大鍾を贈ることとし、広車に載せた」といい、高誘注に「厹由は、狄の国で、あるいは仇首と作る」という。『通志』氏族略二に「韓子のいうには、仇吾国が智伯に滅ぼされたため、これを氏とした。あるいは仇繇と作る」という。

表記ぶれひどいと思いつつ、もとが当て字なうえに、先秦文献は通字・仮字が横行するからしかたがない。仇由の大臣で斉に亡命した赤章曼枝なんて人物がいるが、もとはどんな音で呼んでたんだろうなと、ふと思う。