咸陽と長安を結ぶ橋

『初学記』所引の『三輔舊事』にいう。「始皇帝即位,在渭南作長樂宮。橋通二宮。表河以為秦東門,表汧以為秦西門。」
『初学記』所引の『三輔舊事』にいう。「初,秦都渭北,渭南作長樂宮,橋通二宮間,表河以為秦東門,表汧以為秦西門。二門相去八百里渭水貫都以象天河,橋横南渡以象牽牛。漢都渭南,開北闕以臨渭。渭北則陵廟所在。」
『北堂書鈔』所引の『三輔黄圖』にいう。「橋廣六丈,南北二百八十步,六十八間,八百五十柱,二百一十梁。」
秦の首都は渭水の北の「咸陽宮」であった。始皇帝のときに離宮として渭水の南に「興楽宮」(長楽宮)が築かれる。このふたつの宮殿のあいだには、渭水をまたぐ橋がかけられていた。この橋は「横橋」(石柱橋)といって幅が六丈、南北に二百八十歩(一説に三百八十歩)という巨大なものであり、前漢にも受け継がれて、丞令が置かれて管理された。秦の咸陽宮は項羽に焼かれ、漢の高祖劉邦は婁敬の説を採って、渭南の長楽宮、すなわち長安に首都を置いたわけである。