舜は蒼梧の野に斃れ、禹は会稽に葬られる

古代の「中国」の疆域は、いわゆる中原と同一で、黄河流域を中心とする今からみるとだいぶ狭い範囲なんだけど、中国人の天下観念はたぶん戦国時代あたりに急速に拡張した。『尚書』禹貢篇の九州説が出てきたのも戦国あたりだし、舜や禹といった伝説的帝王の事蹟の輪郭がととのったのもそのあたり。
そこでとにかく舜が蒼梧の野で死去して零陵の九疑山に葬られたという伝説が生まれた。これは現代人にはそのまま信じることはできない話だけれども、本格的な帝王の活動範囲はこのくらい広いのだという観念のほうが実際の征服よりも先行したということだ。
秦の始皇帝が六国の征服につづいて南征に着手したのも、三皇五帝の権威を継ぐ、本格的な帝王たらんとする意思の表明だったのだろうと想像される。零陵や蒼梧の地が舜のものだったなら、それは始皇帝のものでもあるはずだ。メインランド・チャイナの疆域のほとんどは、始皇帝の征服以前に思想的に画定されていた。漢の武帝がそれにほんのちょっぴり河西回廊をつけくわえたりしただけなのかもしれない。

ということで、以上はここらへんからの連想でデタラメ書いてみただけなので信じないように。このヨタ話は、鄒衍の八十一州説とか『穆天子伝』とか持ち出すとおそらくは破綻するだろう。