北斉は名将の粛清により滅びたのか。

北斉Wikipedia日本語版)2009年2月25日 (水) 00:18の版

北周と争い、歴代の君主の軍事能力で互角の戦いを繰り広げたものの、後主が帝位に就いてからはその悪政によって政治が乱れ、奸臣たちの讒言によって高長恭や斛律光などの名将たちが粛清されると一気に劣勢に立たされて、577年に北周に滅ぼされる。

これって小説家・田中芳樹の影響がいまだに大きすぎるんだなあ。「歴代の君主の軍事能力」とかいうのはコーエーが混じってるかもしれない。(;´Д`)

田中芳樹『中国武将列伝上』(中央公論社)P183-184

それで、ふたりとも北斉最後の皇帝に非常に妬まれまして、そこに敵国からの流言が飛んだので、結局、蘭陵王は毒殺、斛律光も殺されて──斛律光のほうは一族皆殺しということになります。いわば二本の柱で立っていたものを、二本ともぶった切ったもので、もう丸裸になった北斉を、北周が亡ぼします。このとき北周の皇帝は、敵ながら彼らを惜しんで、「この人たちが健在なら、とても我々は北斉の都を占領することなどできなかったろう」と歎息したといわれます。

いや北周武帝は、斛律光について「この人がいれば、どうして朕が鄴に入ることができただろうか」と言ってるけど、蘭陵王高長恭についてはとくに何も言ってないんだが。しかも武帝は敵将の死を惜しむというより、大喜びしてたんだけど。
高長恭と斛律光を北斉の二本柱って言ってるのは、田中芳樹独自の主張なのさ。

さて歴史家はどう見ているか。
岡崎文夫『魏晋南北朝通史内編』(平凡社東洋文庫)P399

高緯によりて名将斛律光が殺された。これ実に周に対する有力なる防禦を自ら破壊したものといわるる。そしてこれが主動者たる者は漢族祖珽であり、祖珽の建議によって文林館新設せられ、斉の有名な学者李徳林等はこの館内にて書物の編纂に当って居るから、表面はいかにも中国風な空気が朝廷内部を掩うように見ゆるが、しかし李徳林のごとき有力者はついに斉のために力を尽したことなく、かえって帝を取巻く一派の間には漢族に対する露骨な反感が顕われて居る。漢狗とか漢丐児などという名称はしばしば彼等の間に用いられる。要するに帝はその側近者とともにほしいままなる政治をなし、一般民心はもはやまったく斉を去って仕舞ったのである。

責任編集森鹿三中国文明の歴史4分裂の時代魏晋南北朝』(中公文庫)P237−該当部分の執筆は兼子秀利

北斉では仏教・道教が非常に盛んであり、僧尼の正確な数はわからないが、かなり多数存在し、それがために租税収入が不十分になったといわれる。北斉北魏の制度をついだのは現実的であり、貴族の支持もあったが、鮮卑系軍人と漢民族官僚の対立もあり、また政治目標が漠然として進歩性に乏しく、漢民族貴族制の欠点をも継承したことになった。そこに北斉の国力が限界をあらわすことになるのである。


川勝義雄魏晋南北朝』(講談社学術文庫)P401

こうして政界は北族系勲貴・漢人貴族・恩倖の三つ巴の闘争場と化していった。

P402

五七一年、和士開らの専権に対する不満は諸王・勲貴の側からおこり、クーデタによって和士開らを斬った。するとこの機会に、漢人貴族祖珽は生き残った恩倖たちと結び、後主を動かして勲貴弾圧にふみきらせ、北周を威圧していた名将斛律光までも殺してしまった。これによって北周の侵攻に対する防衛力は激減したのである。

川本芳昭『中華の崩壊と拡大−魏晋南北朝』(講談社)P278

孝昭帝は文宣帝までの路線を改め、勲貴層の尊重に努め、そうした路線はその次の武成帝にも受け継がれる。しかし勲貴の専横は、国家の不安定要因であり、帝権の伸張と相容れるものではない。ために中国的な政治理念に基づき、帝権の伸張を目指す漢人門閥官僚との暗闘は、北斉後期にかけてきわめて複雑な様相を呈するようになっていく。加えて和士開など当時恩倖と呼ばれた身分の賤しい成り上がりものからなる皇帝の寵臣グループの伸張も生じ、これらの勢力間での抗争の度が強まるに従って、北斉の求心力が低下するという事態が深刻化していった。

要するに歴史家たちの主張の最大公約数は、北斉の滅亡の原因が勲貴・漢人官僚・恩倖の抗争にあるってこと。その中で斛律光の粛清に言及しているものは多いが、高長恭については一言もない。それは当然で、斛律光と違い、高長恭には大軍を率いての戦功がないからだよ。田中芳樹の主張は小説的に面白い(仮面をつけた美青年で、しかも名将!)けど、まじめに歴史やっている人には相手にされないものだってこと。

蛇足:斛律光に次ぐ北斉の名将を挙げるなら、段韶ではないかと個人的には思う。