武則天死後の武氏

705年、張柬之が起兵して張易之・昌宗兄弟を殺し、唐の中宗が復位し、武周政権は崩壊する。武則天則天武后)の死後も武氏の権勢は余喘を保ったが、安楽公主が韋氏の乱で落命すると、武三思の墓は暴かれ、太平公主の乱の後、武攸曁の墓がやはり暴かれて遺体を損傷された。女帝の死後、武氏はとどめを刺されたのか?
いな、玄宗の妃の武恵妃は武攸止の娘であり、武攸止は武則天の従兄の子にあたる。憲宗朝の宰相であり、詩人としても名のある武元衡は、曾祖父の武載徳が武則天の従弟にあたる。武則天の死後も、武氏は貴族でありつづけたわけであり、唐朝で尊重されつづけたわけである。以上は別に目新しい指摘というわけではないが、概説書などには出てこない事柄ではないかと思って書いてみた。