漢寿亭侯

趙翼『陔余叢考』巻三十五より

   漢寿亭侯
関壮繆が顔良を斬ると、曹操が上表して漢寿亭侯としたのは、『三国志』に見える。先主〔劉備〕が即位したとき、勧進表に漢寿亭侯関羽・新亭侯張飛と名を列しているのは、さらに証しとすべきである。『宋書』に、王鎮悪が劉毅を平定した功により漢寿県子に封ぜられており、沈林子がまた漢寿県伯に封ぜられている。『南史』に、蔡道恭が梁の天監年間に漢寿県伯に封ぜられており、また劉悛は漢寿の人邵栄興が六代同居していることをもって特にその家門を上表している。これは漢寿がもとは地名であったのであって、後世の人が漢の字が上から係ると誤ってしまったのである。ただ寿亭と称するのは、洪容斎『随筆』がその間違いを力説している。王敬哉『冬夜箋記』は、また「漢寿の二字を分けて用いるべきでない」と言っている。呉青壇『読書質疑』は、合わせて「漢寿県が犍為郡にあり、史書が称する費禕が殺害された漢寿がここである」とする。しかし呉青壇はまだ詳しい論考をしていないのである。漢寿県を調べると、もともとふたつある。費禕が殺害された地は蜀中にあり、郭璞『爾雅註』にいうには、「水が漢中郡沔陽県より南に流れて梓潼郡漢寿にいたる」。これはもとの広漢郡葭萌県で、建安二十五年(220)に蜀の先主が漢寿と改名したのである(いま〔清代〕の四川省保寧府である)。曹操が上表して関公を封じたのは建安五年(200)のことであり、もとよりこの地名が立てられていない。『続漢書』郡国志によると、武陵郡の属県に漢寿があって、漢の順帝のときに名を改められている。関公が封ぜられたところは、たぶんこの地である。『三国志』の呉書に潘濬は「武陵漢寿の人」とある。『晋書』に潘京はまた「武陵漢寿の人」とある。ここに武陵郡に漢寿のあることが明白となろう。熊方『後漢書年表』の異姓侯の内に、寿亭侯関羽とあるが、その下の格註に「武陵」という。これは関公が封ぜられたところの漢寿が武陵郡にある明証である(寿亭の上にひとつ漢の字が少ないのは、おそらく伝写の誤脱であろう)。劉禹錫に「漢寿亭春望詩」があり、荊州刺史治にあると自ら注している。『名勝志』にまた「荊州に漢寿城がある」といっている。これは曹操が上表して関羽を封じたところ、荊州にもうひとつの漢寿があることになる。漢末の武陵郡を調べると、荊州に属している。しかし刺史の治所はここではない。これは思うに後世の人が関公がたまたま荊州に鎮したため、城を建て亭を築いて遺跡に残しただけである。世間が寿亭と称するようになったのは、最近のことではない。『大明会典』もまた寿亭侯と称するにとどまる(明初に鶏鳴山に廟を建て、寿亭侯と称するにとどまった。嘉靖十年(1531)、太常卿黄芳が上奏して、漢前将軍漢寿亭侯と改めた)。

疲れたので、以下まだ続きあるけど略。ちなみに僕も漢の寿亭侯だと思ってました。誤伝ってこわいですね。