陳慶之は頑張りすぎたという話

 陳慶之の北伐について、以前Twでテキトーに語った(騙った)ログまとめ。
 元顥を立てて北伐したときの陳慶之は7000人ほどを率いてたことになってる。実数が正しいかどうかは分からないけど、陳慶之の将軍号の「飈勇将軍」は『隋書』百官志上の序列を見る限り、あまり高くなさそうなのは分かる。


 梁武としてもあまり本気ではなかったし、予想外に健闘しすぎて、後詰めも追いつかなかったのだろう。

 北魏の亡命皇族をテキトーに立てて、格の低い将軍をテキトーにあてがうのは本気とはいえない。陳慶之は頑張りすぎたのだ。

 梁武が北伐に本気出したときは自前の皇族将軍を総大将に立ててるんだが、愛息の蕭綜が寝返ったトラウマというのがあってな。梁武が次に本気出すには侯景が降った後の蕭淵明の北伐まで待つことになる。

 陳慶之の北伐時に征北大将軍の蕭淵藻は渦陽にいたというこの圧倒的距離感。うむ、後詰めには遠すぎる。

 527年(梁の大通元年、北魏の孝昌3年)の彭群・王弁による山東方面への北伐のほうが規模が大きいし、羊侃をはじめとする泰山羊氏の帰降を受けたという点でも後に繋がった感。『魏書』鹿悆伝のいう7万が本当かは知らんが。

 元顥のほうに求心力があれば、また別の展開もあったかも知れないけど、そちらはさっぱりだったし。守りに入ったときに1万に満たない軍勢で洛陽を維持できるわけないんだね。

 陳慶之の北伐で洛陽を陥落させられたのは、六鎮の乱で北魏が混乱していたからという説明は間違いではないのだが、この時期には六鎮の乱はほぼ終息していて、爾朱氏の権勢が拡大していく時期であるというのはいちおう押さえておきたい。河陰の変のほうが洛陽でのショックは大きかったのではないかなあ。

どうして肉を食わないのか

 『晋書』孝恵帝紀に「及天下荒亂,百姓餓死,帝曰,何不食肉糜」
(天下が混乱し、民衆が餓死するにおよんで、恵帝は「どうして肉粥を食わないのか」といった)
とあるのはそれなりに知られているが、

 『金史』世宗紀に「遼主聞民間乏食,謂何不食乾腊」
(遼主は民間に食が乏しいと聞いて、どうして干し肉を食わないのかといった)
とあるのはまず知られていない。遼(契丹)のどの皇帝による発言なのかはっきりしないうえに、金のプロパガンダ臭も抜きがたいので、取り上げる価値もないのかもしれない。

『建康実録』の倭国記事

巻十
「(義熙九年)十二月高句麗倭國及西南夷銅頭太師並獻方物」、413年
巻十二
「(元嘉二十年十二月)百濟倭國使使貢獻」、443年
「(元嘉二十八年)秋七月甲辰進安東將軍倭王綏濟為安東大將軍」、453年
巻十三
「(大明四年十二月)丁未倭國遣使貢獻」、460年
巻十四
「(昇明元年)冬十一月丁酉倭國遣使朝貢」、477年
「(昇明二年)五月戊午以倭國王武為安東大將軍」、478年
「是歳(昇明二年)蠕蠕國高麗倭國並遣使朝貢」、478年
巻十六
「倭國在帶方東南大海中島上漢末以女人立為王」
巻十九
「天嘉二年正月高麗倭國及百濟並遣使貢方物」、561年

以下おまけ




内史騰=辛勝説

 鶴間和幸『新説始皇帝学』(KANZEN)が出ています。ムック本の体裁なのですが、秦の統一前後の時代について近年の出土史料にもとづく新研究をフォローしているので、かなり読み応えのある内容です。
 さて、これのp.172に「中国の歴史家の馬非百は、騰について『元和姓纂』『通志』に見える、秦の将軍辛騰のことではないかとしています」とありました。内史騰=辛騰とする説があるのですね。初めて知りました。さて辛騰とは、誰でしょう。
 『通志』巻26氏族略第二に「秦有將軍辛騰家中山苦陘曾孫蒲漢初以豪族徙隴西狄道」とあります。訳をつけるなら「秦に将軍辛騰があり、中山国苦陘県(現在の河北省定州市邢邑鎮)に家があった。曽孫の辛蒲が漢初に豪族として隴西郡狄道県(現在の甘粛省臨洮県の西南)に移住した」といったところでしょう。
 『通志』は南宋の鄭樵の著した制度史書です。辛騰についての初出は、おそらく唐代後期に書かれた『元和姓纂』のほうでしょう。
 『元和姓纂』巻3には「秦有将軍辛騰家中山苦陘曾孫蒲漢有辛武賢」とあります。訳をつけるなら「秦に将軍辛騰があり、中山国苦陘県に家があった。曽孫は辛蒲。漢に辛武賢があった」といったところです。
 辛武賢は『漢書』宣帝紀によると、紀元前61年に酒泉太守から破羌将軍となった人です。同書に立伝されている辛慶忌の父ですね。辛騰が前漢の武臣である辛武賢・辛慶忌父子の祖先として唐宋以降の史料にはじめて名と貫籍だけ記録された存在であるとするならまともにはあつかえません。古今東西、後世の系譜史料ほどいい加減なものはないからです。
 ただし、内史騰=辛騰の説はここからが本番です。
 『資治通鑑』巻6に「十七年内史勝滅韓」とあるように、内史騰は内史勝と書かれることがあります。記事の内容からして『資治通鑑』の内史勝が『史記』秦始皇本紀始皇十七年条の内史騰と同一人物であることを疑う人はまずいないでしょう。
 ここで『史記』秦始皇本紀始皇二十年条にある「而使王翦、辛勝攻燕」の辛勝が注目されます。内史騰が内史勝と表記されることがあるなら、辛騰と辛勝も同一人物ではないのか。そして内史勝は辛勝の官名による別表記であり、内史騰(内史勝)は辛勝であり、辛騰ではないのかというのが、内史騰=辛勝説あるいは内史騰=辛騰説です。とりあえず説明としてはハマっているかと思いますし、事実である可能性は否定できません。ただ確証を得るには史料が少なすぎるでしょうが。

北魏と百済の戦争はあったのか

 5世紀後半に北魏百済のあいだに戦争があったとする史書の記述がある。
『南斉書』東夷伝
「是歳,魏虜又發騎數十萬攻百濟,入其界,牟大遣將沙法名、贊首流、解禮昆、木干那率眾襲擊虜軍,大破之」
(この年、北魏は騎兵数十万を発して百済を攻め、国境地帯に進入した。百済王牟大は将軍の沙法名・賛首流・解礼昆・木干那に兵を率いさせて派遣し、魏軍を襲撃して、これを大いに破った)
 「是歳」は文脈的には南朝斉の「建武三年」、つまりは西暦496年のこととなる。北魏の孝文帝の太和20年に相当する。ただこの前段に文章の脱落があるのではないかという議論があり、はっきりはしていない。

『建康実録』巻十六
「永明二年,魏虜征之,大破百濟王牟都」
(永明二年、魏軍が百済を討ち、百済王牟都を大いに破った)
 南朝斉の「永明二年」は西暦484年のこととなる。北魏の孝文帝の太和8年に相当する。ここの「百濟王牟都」は「百濟王牟大」の誤りではないかとの指摘もある。

資治通鑑』巻一百三十六
「魏遣兵擊百濟,為百濟所敗」
(魏が兵を派遣して百済を撃ち、百済に敗れた)
 永明六年の記事である。西暦488年のこととなる。北魏の孝文帝の太和12年に相当する。

 これらの戦いは実際にあったのだろうか。北魏東魏の断代史である『魏書』は、対百済の戦闘行動をいっさい記録していない。百済は主に南朝と通交していたので、広く見れば北魏の敵ではあろうが、そもそも通説的には北魏百済は国境を接していない。海路を取れば別だが、大軍を渡海させるような艦隊を北魏保有していない。

 ここで登場するのが遼西に百済の飛び地領土があったという説である。
宋書東夷伝
「其後高驪略有遼東,百濟略有遼西。百濟所治,謂之晉平郡晉平縣」
(その後高驪が遼東をほぼ領有し、百済が遼西をほぼ領有した。百済の治所は晋平郡晋平県といった)
梁書』諸夷伝および『南史』夷貊伝下
「晉世句麗既略有遼東,百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣,自置百濟郡」
(晋代に句麗が遼東を領有すると、百済もまた遼西・晋平二郡の地に拠り、自ら百済郡を置いた)

 5世紀後半の遼西に百済の領土があったとするなら、北魏百済のあいだの戦争をいちおう説明可能である。しかしこれはほとんど信用できない。仮に晋代の一時期に百済の遼西領有に実態があったのだとしても、4世紀後半には後燕に、5世紀初頭には北燕に遼西は領有されている。西暦436年に北魏の娥清・古弼らの遠征によって北燕が滅ぼされ、遼西は北魏の領有に帰している。西暦460年(和平元年)に北魏の文成帝は遼西に巡幸している(『魏書』礼志四之一)し、西暦497年(太和21年)に陸叡が獄死するとその妻子が遼西に移されていたりする(『魏書』陸叡伝)。5世紀後半の遼西に百済の領土が存在したなら、このようなことは不可能だったろう。南朝系史料に記録された北魏百済のあいだの戦争は、南朝百済の外交関係から生まれた虚妄だったとみるべきだろう。

武媚娘曲と武則天

 某所での関連話題ですが、こちらに投下します。史書をみると、「武媚娘」と武則天を紐つけたのは後付けくさいという話です。

 『旧唐書』后妃伝上に「天后未受命時,天下歌武媚娘」とあり、『新唐書』后妃伝上に「天后世,歌武媚娘」とあり、『新唐書』五行志二に「永徽後,民歌武媚娘曲」とあって、武媚娘という曲が唐の高宗期以降に歌われたことが分かります。

 ただ武媚娘の原曲が則天と関係ないのは間違いありません。『旧唐書』と『新唐書』の李綱伝によると、隋の開皇末年に皇太子楊勇の宴会で太子左庶子の唐令則が琵琶を鳴らして武媚娘の曲を歌っています。李綱は「淫声」としてこれを非難しています。まだ生まれていない則天のことを歌えるわけがありません。

 南北朝時代文人の庾信に「武媚娘詩」というのがあって、「眉心濃黛直㸃額角輕黄細安」という引用が残っていますが、武媚娘の曲との関連はよく分かりません。これも時代的に則天のことを詠んでいるとは考えられません。

 もしかしたら武媚娘の曲は唐の高宗のころに則天待望のプロパガンダソングとして改詞改作されて広められたのかもしれませんが……、憶測はほどほどにしておきます。

 則天に武媚と賜号したのは唐の太宗であって(『新唐書』后妃伝上)、媚は則天の諱・実名・幼名といった類のものではありません。媚娘呼称も曲名としてしか史料に出てきません。これは強調しておいたほうが良さそうです。

中国史ポリコレを考える

 「ポリティカル・コレクトネス」という言葉がなかった頃から中国の歴史的呼称にはさまざまな批判が加えられてきたもので、とくに中華思想に関わる語に関してはやや慎重に扱われてきたとは言える。
 現代では「四夷」すなわち「東夷」・「南蛮」・「西戎」・「北狄」の語を括弧抜き(引用符抜き)で使用するのは、ためらわれるものがあるだろう。そうした語を平文で使用すれば、エスノセントリックな中華思想を肯定しているとみなされうるからである。
 一部の保守派が好んで使用する「支那」呼称なども、ポリコレ的な土俵の上にあるとはいえる。かれらに言わせれば「中国」呼称こそ中華思想を肯定する文脈にあり、使用が避けられるべきだというのである。ただ1946年の外務省「支那の呼称を避けることに関する件」に「支那といふ文字は中華民國として極度に嫌ふもの」とみるように、日本社会の大勢は「社会の特定のグループのメンバーに不快感や不利益を与えないように意図された言語、政策、対策」としてのポリコレに従って、支那の呼称を避け、中国呼称を選択しているとも言える。
 中国から見た周辺勢力の呼称「匈奴」・「鮮卑」・「倭」などは中華思想にもとづく蔑称ではないかと指摘されて久しいが、代替呼称が普及する様子はない。たとえば「蠕蠕」・「芮芮」・「茹茹」・「蝚蠕」などと正史で複数の呼称をもつモンゴル高原の勢力について、『通鑑』の「柔然」呼称が普及しているが、虫のうごめく「蠕」字が避けられたというより、常用外漢字が避けられたというほうが実際かもしれない。ただモンゴルに対して「蒙古」という旧称の使用が避けられる傾向にある程度である。呼称の見直しが議論されることもそう多くはなく、史家個人がその存念どおりの呼称を使用しており、歴史的呼称の変化はほとんど世代交代に等しい。冒頭に「やや慎重」と述べたとおりで、ポリコレ急進派が古い用語を狩りつくすというような懸念は、こと中国史界にあっては杞憂だろう。
 やや脱線になるが、ポリコレは言葉狩りだとみなすような単純な見解に亭主は与さない。ポリコレが実際の現象としては言い換えとして現れる以上、そこには新語が生まれているのであり、文化的にはむしろ新たなミームが発生しているといえる。旧語も平文常用のものとして避けられているだけで、括弧つき引用は自由であり、抹殺されているわけではない。そもそもポリコレ以前から言葉は変化するものであり、旧語と新語の交代は有史以来続いているのだ。ポリコレを敵視しても「トルコ風呂」や「スチュワーデス」が常用の語として復活することはない。
 話を歴史呼称に戻すなら、「則天武后」を「武則天」と呼んだり、「元朝」を「大元ウルス」と呼称したりするのも、そこにポリコレ的な理屈がつくとしても、旧語と新語の交代であり、歴史家の世代交代でもあるだろう。
 ついでに私見を述べておくと、亭主が憎んでやまない中国史語りの悪習は、非漢民族を「異民族」とひとくくりに呼ぶことであり、見直されるべきと考えている。



 さて、語ることはまだありそうだが、脱線を続ける話の収拾がつかないのが見えてきたので、締めに入らせてもらおう。E・H・カーが「歴史家と事実の間の相互作用の不断の過程」といい、「現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」といったように、歴史の語り口は変化していくものであるし、歴史的呼称も不変のものとはならないだろう。ポリコレを問題視するにしても、剣と天秤を持つ「正義」が特定の誰かの専有物でない以上は、不断の議論によって暫定解を見出し続けていくしかない。