はじめての中国史SF選集

 このところ劉慈欣『三体』がベストセラーになり、『折りたたみ北京』『月の光』のようなアンソロジーが刊行されて、中国SFが近年の日本でも紹介されはじめております。そういう時代に出ましたこれ。
『移動迷宮―中国史SF短篇集』(中央公論新社

 中国史かつSFという我々に対する挑戦?のような選集が出てしまったので、ひとつ書いてみました。重大なネタバレを複数含んでいるので、今後読むつもりがあって未読の方は引き返されるようお勧めします。あと野暮なツッコミが嫌いな方も読まないほうが良いかと思われます。

続きを読む

琅邪王氏も陳郡謝氏も侯景の乱で滅んではいない

なお、南朝の貴族制は梁の武帝の末年に起こった侯景の乱によって大打撃を受け、南朝貴族の最高の地位を占めていた王氏や謝氏など、永嘉の乱後に江南に渡った北来貴族の多くが滅んだとされる。
窪添慶文『北魏史』(東方書店)p.262

  ダウトです。琅邪王氏も陳郡謝氏も侯景の乱で滅んでいません。かつて「王謝」と併称されたほどには振るわなくなったというあたりが妥当でしょう。

 まず琅邪臨沂の王氏については、『陳書』に王沖・王通の伝が立てられていますし、『隋書』には王冑の伝がみえます。『旧唐書』の外戚伝には王子顔の伝が、『新唐書』にはその父の王難得の伝があります。王子顔は唐の順宗の荘憲皇后の父であり、荘憲皇后は唐の憲宗の母にあたります。その荘憲皇后の伝も両唐書の后妃伝にあります。琅邪王氏は唐代になっても皇后ひとりを出すくらいの貴族ではあったわけです。

 陳郡陽夏の謝氏については、『陳書』に謝哲・謝嘏・謝貞の伝が立てられています。こちらは隋代以降の消息が途絶えますが、南朝陳での活動が見られる以上、侯景の乱で滅んだとはいわないでしょう。

 なお琅邪郡臨沂県は唐の地方制度では沂州臨沂県となり、陳郡陽夏県は陳州太康県となっています。陳郡謝氏の同郷の貴族である陳郡袁氏が唐代にもその活動が見えるので、南朝滅亡あたりを境に謝氏が没落し、袁氏だけが生き残ったものでしょうか。

火井

 魏晋以前には蜀郡臨邛県に火井があり、その井の火で塩が煮られていたらしい。この火井については、油井であるとか、天然ガス田であるとか、現代的な解釈はいろいろある。唐代以降、その伝承をもとに邛州火井県が置かれている。

 『博物志』巻二に「臨邛有火井一所,從廣五尺,深二三丈,在縣南百里。昔時人以竹木投取火,諸葛丞相徃視之後,火轉盛熱盆蓋,井上煮鹽,得鹽入于家,火即滅絕,不復然也」とある。左思『蜀都賦』の劉淵林注に「蜀郡有火井,在臨邛縣西南。火井,鹽井也。欲出其火,先以家火投之,須臾許隆隆如雷聲,爛然通天,光耀十里。以竹筒盛之,接其光而無炭也。取井火還,煮井水,一斛水得四五斗鹽。家火煮之,不過二三斗鹽耳」とある。

日本・南海は越の分枝という説

 唐の徐堅の編纂による類書『初学記』巻八嶺南道第十一に「地理志云今蒼梧蔚林合浦交趾九真日本南海皆粤分」とある。参考として訳をつけると、

『地理志』にいう。今の蒼梧*1・蔚林*2・合浦*3・交趾*4・九真*5・日本・南海*6はみな粤(越)の分かれたものである。

 といったところか。「日本」以外に列挙された地名がいずれも郡名であることには留意が必要だ。
 正史の『漢書』や『晋書』や『隋書』にある地理志の現行テキストには、この記述は見られない。『初学記』の引用した『地理志』は何かというと、『新唐書』芸文志二にいう「鄧基、陸澄地理志一百五十卷」が取りあえず考えられる。ただし『南斉書』陸澄伝では相当する書名が「地理書」とされているし、『隋書』経籍志二でも「地理書一百四十九卷」とされ、『旧唐書』経籍志上でも「地理書一百五十卷」とされている。なにより引用の「日本」がもし国号を指しているのだとすれば、南朝斉のころの書物に出てくるわけがない。
 ということで、『初学記』が何の文献を引用したのか、ここにいう日本がわれわれの良く知る列島を指しているのか、いずれも結論はない。
 『晋書』四夷伝倭人条に「自謂太伯之後」というように、古代の日本人を呉と関連づける伝世文献は知られているが、越と関連づける文献はあまり知られていない。ただ近年には稲作の伝播や長江文明論と絡めて、古代日本と越との関係を語る議論も少なくない。上述のような断片的記事も多少の裨益があるかと、書いてみたところである。

*1:蒼梧郡-現在の広西自治区梧州市付近

*2:鬱林郡-現在の広西自治区貴港市付近

*3:合浦郡-現在の広西自治区北海市付近

*4:交趾郡-現在のヴェトナムハノイ付近

*5:九真郡-現在のヴェトナムタインホア付近

*6:南海郡-現在の広東省広州市付近

蒙恬造筆のこと

 晋の崔豹『古今注』雑注第七に「世稱,蒙恬造筆,何也,答曰,蒙恬始造,即秦筆耳,以枯木爲管,鹿毛爲拄,羊毫爲被,所謂蒼毫,非兎毫竹管也」といって、秦の蒙恬が初めて筆を造ったという記述が見える。『史記孔子世家に「至於為春秋,筆則筆,削則削」とあるのは、司馬遷の勇み足だったのだろうか。
 結論をいうと、前世紀に湖南省長沙市の左公山楚墓から筆が出土しており、また河南省信陽市の長台関楚墓や湖北省随州市の曾侯乙墓からも筆が発見されていることから、考古的には筆の起源はすでに戦国時代に遡っており、蒙恬造筆伝説をもはや信用することはできない。
 許慎『説文解字』第三下聿部聿条に「所以書也,楚謂之聿,吳謂之不律,燕謂之弗」といい、筆条に「秦謂之筆,从聿从竹」という。筆は楚で「聿」と呼ばれ、呉で「不律」と呼ばれ、燕で「弗」と呼ばれていたわけである。孔子が『春秋』を書いたことはなくとも、筆を握ったことはあるのかもしれない。

「西陽蛮」

 六朝時代の「西陽蛮」は西陽郡の「蛮」、つまりは当時の少数民族であったといっていいだろう。西陽郡は現在の湖北省の東部、黄岡市あたりに置かれた郡である。『宋書』夷蛮伝によると廩君の後裔とされ、西陽郡に巴水・蘄水・希水・赤亭水・西帰水があったため、「五水蛮」ともいったという。

 東晋初期の王敦の部下であった周撫が、王敦の敗北後に鄧嶽とともに逃亡し、「撫遂共入西陽蠻中,蠻酋向蠶納之」(ともに西陽蛮中に入り、蛮の首長の向蠶に迎え入れられた)という記事が『晋書』周撫伝に見える。これが史書における西陽蛮の初出である。西暦324年頃のことである。

 前出の『宋書』夷蛮伝に「元嘉二十八年,西陽蠻殺南川令劉臺,并其家口」とあって、西陽蛮が南川県令を殺害した事件があったことが分かる。同書沈攸之伝に「(元嘉)二十九年,征西陽蠻」とあって、沈攸之による討伐を受けているのは、おそらく前年の事件を受けてのことだろう。さらに同書文帝紀元嘉三十年条に「(春正月)戊子,江州刺史武陵王駿統眾軍伐西陽蠻」といい、武陵王劉駿による討伐を受けている。これらは宋の文帝の治世の末期、西暦451年から453年にかけてのことである。

 『南史』沈慶之伝に「(大明)四年,西陽五水蠻復為寇,慶之以郡公統諸軍討平之」とあって、460年に西陽蛮が反乱を起こし、沈慶之がこれを平定したことが分かる。同書夷貊伝下にその後のことも見える。「孝武大明四年,又遣慶之討西陽蠻 ,大剋獲而反。司馬黑石徒黨三人,其一名智,黑石號曰太公,以為謀主。一人名安陽,號譙王,一人名續之,號梁王。蠻文山羅等討禽續之,為蠻世財所篡,山羅等相率斬世財父子六人。豫州刺史王玄謨遣殿中將軍郭元封慰勞諸蠻,使縛送亡命。蠻乃執智、安陽二人,送詣玄謨。孝武使於壽陽斬之」(孝武帝の大明四年、また沈慶之を派遣して西陽蛮を討たせ、大勝して捕虜を得たが、司馬の黒石が叛いた。黒石の徒党が3人おり、そのひとりの名を智といい、黒石は太公と号して謀主とした。ひとりの名を安陽といい、譙王と号した。ひとりの名を続之といい、梁王と号した。蛮の文山羅らが続之を討ち捕らえたが、蛮の世財に奪われた。文山羅らはあい率いて世財父子6人を斬った。豫州刺史の王玄謨が殿中將軍の郭元封を派遣して諸蛮を慰労し、離反者を捕縛して送らせることにした。蛮はそこで智と安陽のふたりを捕らえて、王玄謨のもとに送らせた。孝武帝は寿陽でふたりを斬らせた)という。

 465年に宋の明帝が即位すると、晋安王劉子勛が尋陽で挙兵したほか、明帝即位に反対する地方の反乱が続出し、明帝は危地に立つこととなる。鵲尾の戦いの後に西陽蛮は明帝の側についたらしい。『宋書』夷蛮伝を少し長いが引用しよう。「西陽蠻田益之、田義之、成邪財、田光興等起義攻郢州,剋之。以益之為輔國將軍,都統四山軍事,又以蠻戶立宋安、光城二郡,以義之為宋安太守,光興為龍驤將軍、光城太守。封益之邊城縣王,食邑四百一十一戶,成邪財陽城縣王,食邑三千戶,益之徵為虎賁中郎將,將軍如故。順帝昇明初,又轉射聲校尉、冠軍將軍。成邪財死,子婆思襲爵,為輔國將軍、武騎常侍」(西陽蛮の田益之・田義之・成邪財・田光興らは義軍を起こして郢州を攻め、これを落とした。田益之を輔国将軍とし、四山の軍事を都統させた。さらに蛮戸をもって宋安・光城の2郡を立て、田義之を宋安太守とし、田光興を龍驤将軍・光城太守とした。田益之を封じて辺城県王とし、411戸を食邑とし、成邪財を陽城県王とし、3000戸を食邑とした。田益之を召し出して輔国将軍のまま虎賁中郎将とした。順帝の昇明初年、田益之はさらに射声校尉・冠軍将軍に転じた。成邪財が死ぬと、子の婆思が爵位を嗣ぎ、輔国将軍・武騎常侍となった)という。

 『南斉書』蛮伝に「宋世封西陽蠻梅蟲生為高山侯,田治生為威山侯,梅加羊為扞山侯」(宋のときに西陽蛮の梅蟲生を高山侯に、田治生を威山侯に、梅加羊を扞山侯に封じた)とある。斉の高帝蕭道成が即位すると、「以治生為輔國將軍、虎賁中郎,轉建寧郡太守,將軍、侯如故」(田治生を輔国将軍・虎賁中郎とした。輔国将軍・威山侯のまま、建寧郡太守に転出させた)。

 さて斉末に『南斉書』蛮伝に「西陽蠻」といい、『魏書』には自身の伝が立てられて「光城蠻」といわれた田益宗が現れる。かれについてはWikipedia記事があるので、そのリンクを示しておく。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E7%9B%8A%E5%AE%97
 田益宗は斉から北魏に帰順し、北魏の東豫州刺史となって南朝斉や梁と戦うこととなる。

 田益宗の子の田魯生・田魯賢・田超秀は梁に降り、魯生は梁の北司州刺史に、魯賢は北豫州刺史に、超秀は定州刺史に任じられている(『梁書』安成王秀伝)。

 『隋書』百官志上によると、梁のときに西陽郡に「鎮蠻護軍」が置かれたといい、陳のときに「鎮蠻安遠護軍」が置かれたというから、南朝陳に下っても「西陽蛮」がいたとみていいだろう。隋の開皇初年に西陽郡が廃止されて以降は、「西陽蛮」の活動を見ることができなくなる。

 「西陽蛮」の活動は4世紀から6世紀にかけてと比較的長いが、記録は断片的で、かれらの文化や風俗をほとんど伺い知ることはできない。ただ田益之と田益宗、田魯生と田魯賢のように世代ごとの輩行字と思しきものが見えるところからは、漢族の影響をかなり強く受けていたのかもしれない。

梁の武帝の愉快な囲碁仲間たち

 梁の武帝蕭衍は囲碁が大好きで、夜から朝方までやめなかったと言われています。
「高祖性好棊,每從夜達旦不輟」(『梁書』陳慶之伝)
 そのワザマエはプロ級でした。
「六藝備閑,棊登逸品」(『南史』梁本紀中)
 そんな武帝囲碁仲間はどんな人物たちだったのでしょうか。

 棋譜を取ってその優劣を公表していた柳惲
「惲善奕棊,帝毎敕侍坐,仍令定棊譜,第其優劣」(『梁書』柳惲伝)「梁武帝好弈棊,使惲品定棊譜,登格者二百七十八人,第其優劣,為棊品三卷。惲為第二焉」(『南史』柳惲伝)
 夕方から朝方まで武帝と対局していた到漑
「漑素謹厚,特被高祖賞接,毎與對棊,從夕達旦」(『梁書』到漑伝)
 対局に夢中で冠を焼いてしまった陸雲公
「雲公善弈棊,常夜侍御坐,武冠觸燭火,高祖笑謂曰,燭燒卿貂」(『梁書』陸雲公伝)
 弓射と囲碁と酒がトモダチな王瞻
「高祖毎稱瞻有三術,射、棊、酒也」(『梁書』王瞻伝)
 『平家物語』冒頭の悪役の朱异
「异博解多藝,圍碁上品」(『南史』朱异伝)
 韋黯といった人々です。
「漑弈棊入第六品,常與朱异、韋黯於御坐校棊比勢,復局不差一道」(『南史』到漑伝)
 あまりにも若かった陸瓊も含めていいかもしれません。
「大同末,雲公受梁武帝詔校定棊品,到漑、朱异以下竝集,瓊時年八歳,於客前覆局,由是京師號曰神童。异言之武帝,有勑召見,瓊風神警亮,進退詳審,帝甚異之」(『陳書』陸瓊伝)

 なお、碁に関する著書を持っていた息子の蕭綱
「棊品五卷,彈棊譜一卷」(『南史』梁本紀下)
 山中の宰相こと陶弘景囲碁仲間だった可能性があります。
「善琴棊,工草隸」(『梁書』陶弘景伝)
 直接武帝とは面会していないと思われる司馬申囲碁を通じて到漑や朱异と繋がっています。
「十四便善弈棊,嘗隨父候吏部尚書到漑,時梁州刺史陰子春、領軍朱异在焉」(『陳書』司馬申伝)
 文学や仏教に対する注目の影に隠れてはいるもののの、こうした囲碁サロンも貴族たちを繋ぐ文化装置として梁の武帝の長期政権を支えていたのでしょう。