吉備真備が書いた墓誌

 吉備真備遣唐使で入唐留学していたときに書いたとかいう李訓墓誌を起こしてみました。ネットに落ちてた画像を参考にしたので、字釈はだいぶ間違っているかもしれません。

大唐故鴻臚寺丞李君墓誌銘并序
公諱訓字恒出自隴西為天下著姓曾祖亮随太
子洗馬祖知順為右千牛事
文皇帝父元恭大理少卿兼吏部侍郎君少有異
操長而介立好學所以觀古能文不以曜世故士
友重之而時人不測也弱冠以輩脚調補陳留尉
來赴陳留而吏部君仁君至性自天柴毀骨立禮
非旺帛情豈苴麻惟是哀心感傷行路服闋歴左
率府録事參軍太子通事舍人衛尉主薄鴻臚寺
丞以有道之時當用人之代驥之方𩣁龍泉在割
豈不偉歟而天与其才不与其壽梁在廈而始𢬵
舟□流而邃□嗚呼子𥤱言命盖知之矣享年五
十有二開元廿二年六月廿日以疾終於河南聖
善寺之別院即以其月廿五日搉殯于洛陽感德
郷之原夫施以書□□以誄行乃勒石佐銘云
洪惟夫子灼灼其芳□之経世言而有章亦既來
任休聞烈光如何不□弃代云亡其引也盖嬪也
□紀乎□崗
  秘書丞褚思光文  日本國朝臣備書

 墓誌から読み取れること
◎李訓は字(あざな)は恒。隴西李氏と称しています。
◎曾祖父の李亮は隋の太子洗馬とされています。
◎祖父の李知順は右千牛(右千牛衛将軍?)として文皇帝(唐の太宗李世民)に仕えました。
◎父の李元恭は大理少卿兼吏部侍郎をつとめました。
◎李訓の初任は陳留県(現在の河南省開封市)の尉(武官)です。
◎父母の服喪で「骨立」つまで痩せ衰えて自身の身体を「毀」つのは、「礼(禮)」の規定する孝行のパターンでした。
◎李訓は左率府録事参軍・太子通事舎人・衛尉主薄・鴻臚寺丞を歴任。通事舎人は通訳、鴻臚寺丞は外交官なので、そういう方面の才能を持っていたのでしょう。
◎「天与其才不与其壽」(天はかれに才能を与えたが、寿命は与えなかった)。現代でも使えそうな美辞麗句です。
◎享年は五十二。開元二十二年六月二十日に河南(洛陽)聖善寺の別院で病没しました。ということは、西暦683年生まれで、734年の死去です。
◎同年六月二十五日、洛陽感徳郷で殯(もがり)がおこなわれました。
◎最後の行に見えるように、秘書丞の褚思光が墓誌の文を選び、日本国の朝臣の備が清書して、それをもとに墓誌が彫られたわけですね。ちなみに褚思光は張懐瓘「文字論」に名前が見える人物ですが、正史の両唐書には出てこないマイナー人物です。

 蛇足
◎中国ではこの墓誌はほぼ注目されていません。吉備真備遣唐使への興味も低いですし、誌主の李訓も中級の官僚でネームバリューがあまりありませんで。唐代の墓誌の出土数自体が半端ないもので、1992年に発刊された『唐代墓誌彙編』が3600件あまり、2001年に発刊された『唐代墓誌彙編続集』が1564件の唐代の墓誌を収録しています。21世紀になってからも、さらに出土は続いていて、歴史好きには井真成墓誌や祢軍墓誌の発見のニュースを覚えておられるかたもいるでしょう。そういう世界なので、日本の東洋史研究者がいなければ、もっと長いあいだ顧みられなかったかもしれません。

Wikipedia記事が初版より劣化する理由(再掲)

 悪意や荒らしが原因とはかぎりません。また質の悪い編集者が原因とも限りません。練達の編集者でも誤りを犯すことはあります。人間だもの。

 

 記事内部で使われている術語や表現が分かりにくいと思うのか、ごてごてと修飾を加えて簡潔さを損なったり、かえって誤読を誘うような表現に変えてしまったり、完全な誤りに変えてしまったりします。

 

 Wikipedia内の記事同士でのつじつま合わせをしようとして、かえって誤りを拡散するケースもあります。ほか色々ありますが、だいたいは原典にあたって査読していないのが、原因です。

 

 亭主はWikipedianとしてはスターター(=初版記事を書きたがる人)に属しているので、いろいろ恨み辛みがあるとかないとか。

睡虎地秦墓竹簡「編年記」と『史記』秦本紀

睡虎地秦墓竹簡「編年記」については、以前メモっておいたことがあるわけですが、
https://nagaichi.hatenablog.com/entry/20111212/p1
史記』秦本紀と合わせ読んでみようというだけの企画です。
1年ごとに西暦、秦簡「編年記」記事、『史記』秦本紀記事の順序で淡々と並べているだけなので、何が面白いの?とかは聞かないでください。

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ブックマークカウンターをつけてみた。

 全くもって今さらなんですが、
 はてなダイアリーからはてなブログに移行するときに
「記事についたコメントや、はてなスターはてなブックマークを、すべてはてなブログに移行できます」
https://help.hatenablog.com/entry/import

みたいな説明がされていました。
 少なくともブックマークの移行についてはうまく行ってないよということを示すために、ブックマークカウンターを二つつけてみました。

『古本竹書紀年』魏紀をテキトーに読みやすくしてみる。

▽『竹書紀年』は晋代に戦国時代の魏王の墓から出土したとされる紀年体史書です。
▽宋代のころに散逸してしまって、近代に下って各種文献の引用を集めて再構成されました。
▽『竹書紀年』には古本と新本があって、古本のほうが本物とされているので、古本のほうを。面白そうな魏紀の部分だけを今回は紹介します。夏紀・殷紀・周紀・晋紀については、またの機会があればやりましょう。面倒くさいので注釈とかは省きます。どこの文献から引用されたかは、いちおうつけました。
▽「三晋」は趙・魏・韓の三国。「梁」は魏のこと。「邯鄲」は趙のこと。「鄭」はほぼ韓のことですが、一部に春秋の鄭や地名としての新鄭を指しているところがあります。
▽襄王十二年の「疾西風」の解釈は諸説あるので、無理に訳さず、放置しました。「疾」は「樗里疾」のことという説もあります。
▽魏の歴史書なので、魏からみた視点で書かれているのは言うまでもなく。
▽『史記』魏世家と読み合わせてみるのをオススメします。
▽『史記』の記述と異なる諸侯の号とか、六国年表と異なる紀年とかを楽しむのが乙です。では。

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男色の中国史その1

 お題のとおり。その1とつけたが、たぶん続きは書かない。

 弥子瑕という人物が衛の霊公の寵愛を受け、桃を分けて一緒に食べたりしていたが、寵愛が衰えると余り物の桃を食わせたとされて罰せられたという「余桃の罪」の故事が『韓非子』説難篇に見える。

 『史記』佞幸伝によると、「高祖至暴抗也,然籍孺以佞幸。孝惠時有閎孺。此兩人非有材能,徒以婉佞貴幸,與上臥起,公卿皆因關說」といい、漢の高祖劉邦は籍孺、恵帝は閎孺という少年を寵愛していた。また同伝によると、韓嫣や李延年が漢の武帝と寝所をともにしていたという。

 董賢は漢の哀帝の寵臣であり、「断袖」の故事で知られ、「常與上臥起。嘗晝寢,偏藉上褏,上欲起,賢未覺,不欲動賢,乃斷褏而起。其恩愛至此」(『漢書』佞幸伝)という寵愛ぶりで、大司馬にまで上ったが、哀帝が死去すると自殺に追いこまれた。

 北魏の汝南王元悦は丘念という人物を近づけており、「司州牧汝南王悅嬖近左右丘念,常與臥起」(『魏書』酈道元伝)といった。丘念は酈道元に獄中に叩きこまれるのだが、元悦が霊太后に訴えて救われることとなる。

 蕭韶は字を徳茂といい、蕭淵猷の子で、後に長沙王の封を嗣ぐ南朝梁の皇族であった。「韶昔為幼童,庾信愛之,有斷袖之歡,衣食所資,皆信所給」(『南史』梁宗室伝上)といい、かの文学者の庾信が蕭韶を稚児にしていたとされる。

「相邦」銘文をもつ文物

ざっとしたメモ書きなので、誤脱があればごめんなさい。戦国期の趙・中山・秦に相邦の官が存在したことが確実視される根拠はこのへんですね。
「十八年相邦平国君鈹」(邢台市家蔵)
「八年相邦建信君鈹」(北京故宮博物院蔵)
「十七年相邦春平侯鈹」(北京故宮博物院蔵)
中山王方壺銘文「隹十四年,中山王厝,命相邦賙,擇燕吉金,鑄為彝壺」(中山王墓出土)
「四年相邦樛斿戈」
「王四年相邦張義戈」(広州南越王墓博物館蔵)
「十二年相邦義双附耳蓋鼎」(朱昌言蔵)
「十三年相邦義戈」
「元年相邦疾戈」(蕭春源蔵)
「八年相邦薛君漆豆」(秦東陵一号墓出土)
「廿一年相邦冉戈」(中国国家博物館蔵)
「卅二年相邦冉戈」
「三年相邦呂不韋矛」(撫順市博物館蔵)
「三年相邦呂不韋戟」
「四年相邦呂不韋戈」(湖南省長沙市左家塘秦墓出土)
「四年相邦呂不韋戟」
「五年相邦呂不韋戈」(陳介祺旧蔵、中国国家博物館現蔵)
「五年相邦呂不韋戟」
「七年相邦呂不韋戈」
「八年相邦呂不韋戈」(宝鶏青銅器博物館蔵)
「九年相邦呂不韋戈」(四川省青川県白水出土)