八達と八愷

『晋書』宗室伝の「(司馬)孚の長兄の朗は字を伯達といい、宣帝は字を仲達といい、孚の弟の馗は字を季達といい、恂は字を顕達といい、進は字を恵達といい、通は字を雅達といい、敏は字を幼達といい、ともに名を知られた。故に時に号して八達とするのはこれである」で知られる「司馬八達」。

『春秋左氏伝』文公十八年の「むかし高陽氏に才子八人があった。蒼舒、隤敳、檮戭、大臨、尨降、庭堅、仲容、叔達」のいわゆる「八愷」が元ネタと思われる。叔達だけ「達」がついているのがご愛敬。

魯国の中の魯国

史記』高祖功臣侯者年表および『漢書』高恵高后文功臣表によると、奚涓は舎人として劉邦の沛での起兵に従った。咸陽に入ると郎となり、漢に入ると将軍として諸侯を平定した。魯侯に封じられ、4800戸の食邑を得た。漢初のうちに軍中で戦没したらしい。功績は樊噲に匹敵したといい、高祖劉邦の功臣としては7位に列せられている。奚涓には男子がいなかったため、母の疵(底)が魯侯に封じられた。

というようなあたりは、てぃーえすさんがとっくに言及していて、劉疵墓との関係まで言及されていたりするわけだが。
https://t-s.hatenablog.com/entry/20081222/1229952800

さてさて、『漢書』地理志下の魯国の節に「もとの秦の薛郡が高后元年に魯国になった」と割注があり、『漢書』高恵高后文功臣表に「高后二年、(宣平)侯(張)偃が魯王になった」とある。高后元年(紀元前187年)だか高后二年(紀元前186年)だかに、張敖と魯元公主の子の張偃が魯王となり、魯国が成立していることになる。

史記』高祖功臣侯者年表によると、奚涓の母の疵は高后五年(紀元前183年)に死去しているので、張偃の魯王国と疵の魯侯国が併存していた期間があることになる。もちろん張偃の魯王国は郡クラスの王国であり、疵の魯侯国は県クラスの侯国であるので、併存そのものに問題があるわけではない。ただ魯国の中に魯国がある入れ子構造は、漢代郡国制下に発生した面白現象であるなあと、感嘆きわみないわけである。後世の史料に魯郡魯県を見ても何も面白くないので、神は細部に宿るのである。

geocities.jpの消滅

ジオシティーズのサービス終了にともない、移転が確認できた中国史サイトは次の2つのみ。
中国歴史世界
http://tongjian88.com/
光武帝建武二十八星宿
http://liuxiu.web.fc2.com/

やはり粛清されたサイトが多く、アーカイブを掘るしかないのである。
小説で学ぶ世界史と中国歴史
https://web.archive.org/web/20190331081514/http://www.geocities.jp/shokatusei/
サイキの穹廬[ゲル]
https://web.archive.org/web/20190330184723/http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/2887/
劉秀様にはかなうまい
https://web.archive.org/web/20181105042413/http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/5079/
中国近代史研究
https://web.archive.org/web/20190330095801/http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/7906/

長安の植物園

 扶荔宮は上林苑の中にあった。漢の武帝の元鼎六年に南越を破ると、扶茘宮を建てて、得られた奇草異木を植えた。菖蒲(ショウブ)が百本、山薑(ゲットウ)が十本、甘蕉(サトウキビ)が十二本、留求子(シクンシ)が十本、桂(モクセイ)が百本あり、密香(アクイラリア・シネンシス)と指甲花(ホウセンカ)が百本あった。龍眼(リュウガン)・荔枝(レイシ)・檳榔(ビンロウ)・橄欖(カンラン)・千歳子(フジ属)・柑橘(ミカン属)はそれぞれ百本あった。気候が南北で異なるため、歳時を経ると多くは枯れてしまった。荔枝については交趾から百株を庭に移植し、ひとつも生えるものがなかったが、連年移植してやめなかった。数年後、たまたま一株がいくらか成長し、花や実をつけることはなかったが、武帝はこれを大切にした。ある朝に枯死し、守吏で連座して処刑される者が数十人におよんで、再び蒔かれることはなかった。歳貢によって庭園は維持されたが、植物を運ぶ者がたびたび道中で過労死し、民衆の苦難の種になっていた。後漢の安帝のときにいたって、交趾郡守の唐羌がその弊害を上奏して、ようやく奇草異木の歳貢は廃止された。(『三輔黄図』巻3) 

 

 なお、扶荔宮は上林苑の中にあったとする『三輔黄図』の記述は誤りで、実際には左馮翊夏陽県(現在の陝西省韓城市芝川鎮の南)にあったらしい。

代王嘉はなぜ代王を称したのか

 戦国時代の末期に趙嘉という人物がいる。趙の悼襄王の長男として生まれ、太子に立てられたが、異母弟の趙遷に太子位を奪われた。悼襄王の死後に趙遷が即位して趙の幽繆王となった(『史記』趙世家悼襄王九年の条)が、紀元前228年に秦の将軍の王翦が趙の都の邯鄲を陥落させる(『史記』秦始皇本紀始皇十八年および十九年の条)と、幽繆王は捕らえられた。このとき趙嘉は代の地に逃れて、自立して王を称した。趙嘉は代王嘉と史称される。代王嘉の政権は紀元前222年に秦の将軍王賁に攻め滅ぼされる(『史記』秦始皇本紀始皇二十五年の条)まで続く。趙の亡命政権として位置づけられる。

 代王嘉についての史料は多くないので、本当に代王を称したのか疑えなくもない。戦国時代の例でいえば、史料上で趙を邯鄲、魏を梁、韓を鄭と記述した例があるように、地名による他称である可能性もある。自称は趙王であったが、代王と他称されたとする考えである。ただ史料的根拠に乏しい以上、この疑念も袋小路でしかない。趙嘉は代王を自称したのだと仮定しておこう。幽繆王が房陵に流されて生存していたために、趙嘉も趙王を称するのを遠慮したのかもしれない。としても、なぜ代王を称したのか。

 戦国時代の趙にとって「代」とは何だったのかを考えてみたい。

 春秋時代の諸侯国に代国があった。「代郡城は、北狄の代国」(『史記正義』匈奴列伝)というから、狄(翟)族系の国であったらしい。春秋晋の趙襄子のとき、趙襄子の姉が先代の代王の夫人としてとついでいた。紀元前457年、趙襄子は代王を宴会に招待し、その場で騙し討ちにして代国を奪った。趙襄子の姉はこれを聞いて自殺している。代にはあらたに趙伯魯の子の趙周が封じられた。これが代成君である。趙伯魯は趙襄子の兄で、早死していたので、その子が君として封じられたものである(『史記』趙世家趙襄子元年の条)

 この代成君の子の浣が趙襄子の太子として立てられ、趙襄子の死後に即位して趙の献侯となっている(『史記』趙世家趙襄子十三年の条)。趙の献侯は中牟を都としたが、趙襄子の弟の趙桓子が献侯を追放して代で自立している。趙桓子は1年で死去し、献侯が復位する。献侯の子の烈侯は「代からやってきた」(『史記』趙世家烈侯六年の条)といわれている。趙の武霊王のとき、武霊王は「代相趙固」を燕に派遣した(『史記』趙世家武霊王十八年の条)とあるので、このときに趙の封侯・封君としての代国は存在したのではないか。武霊王は子の恵文王に位を譲ったが、長子の趙章を代の安陽君とし(『史記』趙世家恵文王三年の条)、さらに趙を二分して代王としようとした(『史記』趙世家恵文王四年の条)。趙国二分は実現せず、趙章は反乱を起こして不幸な結果に終わっているが、ここでも戦国趙における代の重要性が分かる。

 ここまでのところをみると、戦国趙における代には封侯・封君の存在をうかがわせるところがあり、趙氏の庶子が封じられる例が少なくなかったのではないか。戦国末期に趙嘉が代王を称したのも、そうした背景が考えられるのである。

連鶏の計

 353年、殷浩が北伐したとき、江逌がその下で長史をつとめた。殷浩は洛陽を占領したものの、姚襄の裏切りで危地に陥った。殷浩が江逌に姚襄を撃つよう命じると、江逌は鶏数百羽を集めて長繩で連ね、その足に火を繋いだ。鶏たちは解き放たれると、姚襄の陣営に向かった。陣営から火が起こり、その混乱に乗じて江逌は姚襄の軍を攻撃して、姚襄は小敗をきっした。(『晋書』巻83江逌伝)

6~7世紀の嶺南とかベトナムとか

 

 南朝梁の頃に馮宝と洗夫人が婚姻関係にありますが、隋末唐初の馮盎と洗宝徹は立場を異にしております。

 

 あまり詳しく書かないし書く力もないが、桂州俚の李氏とか、臨賀の鍾氏とかもそうかなと。

 

 

 

 

 

 

 

久しぶりに何か書いたかと思えば、自ツイートのセルフまとめでありました。このへん特に詳しいわけでもないので、専門家に怒られるために書いた雑駁な駄文でかありません。嶺南とベトナムが地続きであったといわんばかりの素人の浅言ですので、ベトナム史に通じた方からの批判を誘い受けでお待ちしております。