「邑姜」の墓出土か

陝西省宝鶏市の石鼓山墓地4号墓の被葬者が、太公望の娘で、周の武王の后である「邑姜」ではないかという説が出ています。
http://ex.cssn.cn/wh/wh_kgls/201607/t20160714_3121143.shtml
4号墓の副葬品から被葬者は女性らしいこと。4号墓と相似し、密接な関係のある3号墓出土の青銅器の族徽から、西羌の首長の有扈氏の墓であるらしいこと。3号墓出土の「中臣鼎」の銘文に「帝后」とあり、これが亡くなった王の配偶者を指す用語であることなどが、比定の根拠となっているようです。

秦信梁軍

趙の慶舎は『史記』趙世家に2カ所出てきます。

孝成王十年の条の「趙將樂乘、慶舍攻秦信梁軍,破之」という記述と、悼襄王五年の条の「慶舍將東陽河外師,守河梁」という記述です。

ちなみに後者について、岩波文庫の『史記世家中』P177が「慶舎は東陽に在り、黄河の南岸の地の兵をひきいて、黄河の梁(はし)を守っていた」と訳しているのは誤訳でしょう。ここは「慶舎は東陽と河外の地の兵をひきいて、黄河の梁(はし)を守っていた」と訳すべきでしょう。三家注のひとつ『史記正義』は、「東陽は(唐代の)貝州に属し、黄河の北岸にある」「河外は黄河の南岸にある(唐代の)魏州の地である」としています。『史記』本文では、ふたつの地名が並列されているので、慶舎はふたつの地の「師」を「將」(ひき)いたと読むべきです。

さて本題ですが、前のほうの「趙将の楽乗と慶舎が秦の信梁の軍を攻め、これを破った」件についてです。『史記集解』は、徐広を引いて「年表のいう新中軍である」としています。『史記索隠』は、「信梁は秦将である」としています。『史記正義』は、「信梁はおそらく王齕の号である。秦本紀が『昭襄王五十年、王齕が張唐に従って寧新中を抜き、寧新中は安陽と名を改めた』というのは、今(唐代)の相州理県のことである。年表が『韓と魏と楚が趙の新中の軍を救い、秦は兵を罷めた』というのがこれである」としています。

史記』秦本紀の昭襄王五十年の条に「即從唐拔寧新中,寧新中更名安陽」という記述と、『史記』六国年表の魏の安釐王二十一年の条に「韓魏楚救趙新中軍,秦罷兵」という記述が確認できます。『史記正義』の説ももっともに思えるわけですが、しかしこれは年表上では1年ずれているのです。秦本紀のいう王齕が寧新中を攻め落とし、安陽と改名した翌年、六国年表と趙世家のいう秦軍が撃退されるという整理は、それなりに筋が通ってはいます。しかし信梁が王齕の号であるという推測は、かなり怪しいものともなるでしょう。

ええと、何が言いたいんでしたっけ?あっそうそう、慶舎は伝世文献的には実在するよという話でした。

皇帝墓二題

呉の「孫休墓」の出土が、全然話題になってないなあ。といいつつ、亭主も一報をスルーしたんですけど。現時点での情報が少なすぎるんですね。盗掘の跡があるみたいですが、朱然墓の名刺みたいな何かが出てくるといいですねえ。
http://news.searchina.net/id/1604882
http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20160315/Searchina_20160315075.html
http://www.chinanews.com/cul/2016/03-11/7793595.shtml
南昌海昏侯墓は前漢廃帝劉賀の墓ということで決まったみたいですね。
http://www.recordchina.co.jp/a130270.html
http://culture.people.com.cn/BIG5/n1/2016/0318/c22219-28210633.html

周原遺跡から「姫生母」の銘をもつ青銅鼎が出た件。

http://www.chinanews.com/tp/hd2011/2016/01-14/600565.shtml
http://news.xinhuanet.com/photo/2016-01/14/c_128628777.htm
http://www.china.com.cn/education/2016-01/15/content_37582171.htm
陝西省宝鶏市の周原遺跡の西周末期の墓から「姬生母作尊鼎,其万年,子子孫孫永保用」という銘文をもつ青銅鼎が出土しているらしい。ということで墓主の呼称は「姫生母」とみられている。
以下きわめて個人的な感想。「姫」は周の国姓だが、「生母」という諱や字は知られていない。そういう諱はなさそうな気がするので、どういう呼称だろうかと。もしかすると、「姫生の母」なのかもしれないけれど、なにか直截的すぎて、違和感がある。時代的には女性の呼称としては「〜姫」とかのほうが違和感がないんですけどね。

追記:感想部分削除。コメント参照。(2016.1.31)

前漢景帝墓(陽陵)から最古の茶葉が出土した件

世界最古の茶葉発掘、人類はいつからお茶を飲んでいたのか?(GIGAZINE
http://gigazine.net/news/20160113-oldest-tea/
陕西汉阳陵出土世界最古老茶叶 距今约2150年(陕西传媒网)
http://www.sxdaily.com.cn/n/2016/0113/c324-5791589.html
汉景帝阳陵的外藏坑随葬品中发现迄今最古老茶叶(新华网)
http://news.xinhuanet.com/politics/2016-01/13/c_1117760442.htm
中国科学家发现最古老茶叶及1800年前的“丝路分支”(中新网)
http://www.chinanews.com/cul/2016/01-13/7714546.shtml

始皇帝がらみの新史料らしい『趙正書』について

北京大学西漢竹書(北大漢簡)のひとつ『趙正書』を訳してみました。ネットに落ちてたものをテキトーに直しただけなので、正確さは全く保証しません。

むかし秦王趙正が天下に出遊し、帰る途中に白人(柏人)にいたって病にかかった。〔趙正の〕病は重く、涙を流して長い溜息を漏らし、「天命は変えることができないのか。わたしはかつてこのような病にかかったことがなかったが、悲…〈不明〉…」と側近たちに言った。…〈不明〉…これに告げて、「わたしは自ら天命を視て、年五十歳で死ぬと〔占ったことがあった〕。わたしは去る年十四で〔秦王に〕即位し、三十七歳で〔皇帝に〕即位した。わたしはいま死ぬべき年に達していたが、その月日を知らなかった。そのため天下に出遊し、気を変化させて天命を変えようとしていたのだが、できなかったか。いま病は重く、死も近い。急いで日夜に行列を運び、白泉に到着するまでは、振り返ってはいけない。つつしんでこのことを秘密にし、群臣に病のことを知らせてはいけない」と言った。
病が重篤だったため、〔趙正の行列は〕前進できなくなった。そこでまた〔趙正は〕丞相の〔李〕斯を召し出して、「わたしは覇王の寿命には足りたが、わが子のなんと寄る辺なく頼りないことか。…〈不明〉…その後の大臣の権力争いは止められず、争って君主を侵犯することとなる。わたしはこのように聞いたことがある。牛や馬が闘うと、蚊や虻はその下で死ぬこととなると。大臣が争えば、民に苦しみをもたらす。わが子の頼りなさとわたしの愚昧な人民をあわれんで、死んでも忘れないでくれ。その議は立てられた」と言った。
丞相の臣〔李〕斯は頭を垂れて、「陛下の万歳の寿命はまだ損なわれておりません。〔李〕斯は秦の生まれではありませんが、故国を去って秦に来てからというもの、主を右に親を左にして〔仕えており〕、強力な臣下はおりません。ひそかに陛下のご高議をよいものと思っております。陛下は卑しいわたしを臣下となさり、万民を教化させており、臣のひそかに幸福に思うところです。臣は謹んで法令を奉り、ひそかに兵備をととのえ、政教を正させました。闘士を官につけ、大臣を尊び、かれらの爵禄を満たさせました。秦に天下を併呑させ、天下の地を領有させました。秦王に臣事し、名を天下に立てました。周王室を継がせて、秦王を天子としました。仁なき者はその財を尽くすところあり、勇なき者はその死を尽くすところありと臣は聞いています。臣のひそかに幸福に思うところで、死しても身には足りないところです。しかしこのように疑われるとは。ぜひとも臣らを処刑なさって、天下に報告してください」と言った。
趙正は涙を流して「わたしはおまえを疑ったわけではない。おまえはわが忠臣である。その議は立てられた」と〔李〕斯に言った。
丞相の臣〔李〕斯と御史の臣〔馮〕去疾は頭を垂れて「いま道遠くに来ており、群臣に詔が届くには時間がかかります。大臣の陰謀が懸念されますので、ぜひお子の胡亥を後継者に立ててください」と言った。王は「よろしい」と言った。
王が死に、胡亥が立つと、まもなくその兄の夫胥(扶蘇)や中尉の〔蒙〕恬、大赦の罪人を殺した。しかし隷臣の〔趙〕高を赦免して郎中令とした。〔秦〕の宗族を皆殺しにして、〔秦〕の社稷を壊し、〔秦〕の律令や古代からの遺蔵品を焼き払った。また天下を統治するのに万乗の車を立てようとし、「天下とともに改革を始めよう」と言った。
子嬰が進んで「いけません。臣はこう聞いています。香りのよい草が根づかないのは、香りの衰えた草が生えることと同じことであり、天地は互いに遠く離れても、陰陽の気は合わさるものです。五国十二諸侯や民の欲しいものは同じでなくとも、意は異なりません。趙王鉅(遷)はその良将の李微(李牧)を殺して顔聚を用い、燕王喜は荊軻の謀を用いて秦との盟約に背かせ、斉王建はその代々の忠臣を殺して后勝の議論を採用しました。この三君は、みなその国を失い、その身を損なって終わりました。これみな大臣の謀であり、社稷の神の祝福しないところです。いま王は一日にして祝福を捨て去ろうとなさっています。臣はひそかにいけないと思うところです。臣はこう聞いています。統治を固めるには軽い考えではいけません。将軍を生きさせるにはひとりの勇気ではいけません。行動を慎重にするには協力するとよろしい。多数の兵を勝たせるには、心と知恵を一致させればよいが、弱兵が強兵に勝つには、上下を協調させて多くの力をひとつにせねばなりません。いま国は危地にあります。闘士は外にあり、内では自ら宗族を殺し、忠臣たちを処刑し、節操のない人物を立てています。このため内に群臣たちを相互不信にさせ、外に闘士の意志を離反させています。臣はひそかにいけないと思うところです」と諫めて言った。
秦王胡亥は聴き入れず、その意の通りに行い、その兄の夫胥(扶蘇)や中尉の〔蒙〕恬を殺し、〔趙〕高を立てて郎中令とし、天下に出遊した。
三年後、〔胡亥は〕また丞相の〔李〕斯を殺そうとした。〔李〕斯は「先王のおっしゃったところの牛馬が闘うと蚊虻がその下に死に、大臣が争うと民に苦しみをもたらすとは、このことであったか」と言った。
〔李〕斯は死にあたって、「その罪というべきで、死をもって足りましょうか。臣は秦の相たること三十余年で、秦の領土の狭かった頃から王にお仕えしてまいりました。はじめ秦の地は百里四方に過ぎず、兵は数万人に過ぎませんでした。臣はつたない知恵の全てを傾けて、ひそかに謀臣を派遣し、かれらに金玉を持たせて、諸侯へ遊説させました。ひそかに兵備をととのえ、闘士を軍隊の統制によって正させ、大臣を尊び、かれらの爵禄を満たさせました。これによってついには韓を脅し、魏を弱らせ、また趙を破り、燕や代を滅ぼし、斉や楚を平らげ、〔六国〕の民を殺傷し、〔六国〕を滅ぼし尽くして〔六国〕の王を捕虜とし、秦を立てて天子としたのが、わたしの罪の第一です。土地が足りないわけでもないのに、北は胡族の天幕まで馳け、南は巴蜀に入って平定し、南海に入り、大越を攻撃しました。王を欲していない者たちに、秦の強さを見せつけたのが、わたしの罪の第二です。大臣を尊び、かれらの爵禄を満たさせ、かれらの身を固めさせたのが、わたしの罪の第三です。〔体積を量る〕斗桶の刻みを改め、度量〔衡〕を統一し、文章を天下に布告し、秦の名を樹立させたのが、わたしの罪の第四です。社稷を立て、宗廟を修築し、主の賢を明らかにしたのが、わたしの罪の第五です。馳道を作り、遊観を興し、王の希望どおりにさせたのが、わたしの罪の第六です。刑罰を緩くし、賦税を薄くし、主君の徳を示して、その恵みを広めました。このため万民が主を戴くようになり、死を忘れるようになったのが、わたしの罪の七です。もしこのような者が人臣でありましたら、罪は幾久しく死に続けても償い足りません。主上は幸いにもわたしの能力を尽くさせていただき、今にいたっております。ご明察くださいますようお願いします」と上書して言った。秦王胡亥は聴き入れず、ついに〔李〕斯を殺した。
〔李〕斯は死にあたって、「〔李〕斯は死にますから、今だけは〔李〕斯に従っていただきたい。そうすれば、善い言葉も出ましょうから。臣はこのように聞いています。古いものを変化させれば常なるものは乱れ、死なない者も必ず滅びます。いま自ら宗族を皆殺しにし、〔秦〕の社稷を壊し、〔秦〕の律令と古代からの遺蔵品を焼けば、いわゆる古いものを変化させて常なるものは乱すというものです。王は病まれたのでしょうか。酒や肉のまずいものは、どうして食うことができましょうか。国を破り家を滅ぼすのは、善言のまずいものであり、どうして用いることができましょうか。突出した高い所に登ってその危険を知るより、知らないほうが安全なものです。目の前の白刃を自ら知る者は死に、自ら生きる者は知らないものです。余計なことを知るのは天道に逆らい、鬼神に背き、神霊の祝福しないところです。〔秦〕の先人を滅ぼし、自ら宗族を皆殺しにし、〔秦〕の社稷を壊し、〔秦〕の律令を焼いて、宦官の功績としながら、改革を求めているのが、王の勉めておられることです。〔李〕斯は〔秦が〕損なわれる姿を見て、今にいたっています」と言った。秦王胡亥は聴き入れず、ついに〔李〕斯を殺した。
子嬰は進んで、「いけません。風俗や法令を変更し、忠臣たちを処刑して、節操のない人物を立てています。法をほしいままにして、天下に不義を行うのは、臣は後の咎めを恐れるものです。大臣は外に百姓と謀議し、内に怨みましょう。いま将軍の張邯(章邯)の兵が外にいて、兵士の労苦をねぎらっていますが、補給を与えていません。外に敵と闘うのではなく、内に臣下を争わせる志向であって、ゆえに危ないというのです」と諫めて言った。
秦王胡亥は聴き入れず、その意の通りに行い、丞相の〔李〕斯を殺し、〔趙〕高を立てて、丞相と御史の事務を代行させた。その年が終わらないうちに、はたして胡亥は殺された。将軍の張邯(章邯)がその国に入って滅ぼし、〔趙〕高を殺した。「胡亥はいわゆる諫言を聴き入れなかったのであり、即位して四年で身は死し、国は滅びることとなった」と言った。

北京大学西漢竹書の概要については、
北京大学竹簡の概要(中国出土文献研究会)
http://www.shutudo.org/research/beijing/beijing3
▽『趙正書』の概要については、
藤田忠「北京大学西漢竹書『趙正書』について」
https://kiss.kokushikan.ac.jp/pages/contents/0/data/1003892/0000/registFile/2187_6525_002_06.pdf
▽「秦王趙正」(始皇帝)は「白人(柏人)」で病んだことになっている。『史記』では、「平原津に至りて病む」「沙丘平台に崩ず」である。
始皇帝が発言の末尾につけている「其議所立」(その議は立てられた)が興味深い。なんだろうこれ。
▽死の床にある始皇帝に対して、李斯と馮去疾が胡亥を後継者に立てるよう請願し、始皇帝が聞き入れている。趙高が暗躍して遺詔を書き換える陰謀が展開する『史記』とは異なる経緯を記している。
▽「秦王胡亥弗聽」(秦王胡亥は聴き入れず)という表現が繰り返し出てくる。諫言を聞かない胡亥を強調するリフレインである。
▽李斯が己の七つの罪を示して弁明する下りは、『史記』李斯列伝にもあるが、いささかの異同がみられる。
▽秦代特有の用語である「黔首」が用いられず、ここでは「民」と書かれている。秦代の記録をそのまま漢代に転写したわけではなさそうだ。
▽子嬰が胡亥を二度諫めているのも面白い。
▽趙高を殺害したのが、ここでは「將軍張邯」(章邯)になっている。『史記』では、子嬰の意を受けた韓談である。
▽全体としてやたら繰り返し表現が多い。
始皇帝より李斯が主役の説話文書だよなあ。
▽『史記』に見えない異説を記した貴重な新史料だが、旧説を塗り替えた新常識とみなすのも危ういかと。史料の位置づけもはっきりせず、『史記』より信憑性が高い証拠もまだない。

人間・始皇帝 (岩波新書)

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史記列伝 2 (岩波文庫 青 214-2)

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秦の咸陽と天の迷宮

本邦における秦代研究者の第一人者である鶴間和幸氏が奇妙な説を唱えているので、素人なりの批判をしておきたいと思います。
宇宙と地下からのメッセージ 〜秦始皇帝陵の謎〜で、
http://www.d-laboweb.jp/event/report/121011.html

咸陽宮はペガスス座、閣道はカシオペア座、極廟はこぐま座北極星、そして北斗七星の場所には阿房宮をもってきた。そうすることによって自国こそが中華の中心であるということを主張した

と、鶴間和幸氏は主張しておられます(以下鶴間説)。これを史料に即しながら見ていきます。

史記』秦始皇本紀の始皇二十七年の条に「焉作信宮渭南,已更命信宮為極廟,象天極」とあります。ここは「信宮を渭水の南に作らせ、信宮を極廟と名を改めさせて、天の北極をかたどらせた」くらいの意味ですので、極廟が北極星という鶴間説の主張をまず仮に受け入れるとしましょう。

史記』秦始皇本紀の始皇三十五年の条に「自阿房渡渭,屬之咸陽,以象天極,閣道絕漢,抵營室也」とあります。閣道はカシオペア座の一部に相当する古代中国の星座です。漢は天漢、つまり天の川のことです。營室はペガスス座に相当します。さて視線を地上に下ろしてみましょう。そもそもここの一節は、阿房宮から渭水を渡って、咸陽に向かう話をしているのです。ダブルミーニングを整理すると、天極(北極)の阿房宮からカシオペア座の閣道を通り天の川の渭水を渡って、ペガスス座の咸陽に行くことになりますから、何やら前段と異なる話になります。極廟(信宮)と阿房宮は同じく渭水の南に位置していますが、場所としては異なる位置にあります。極廟が天極(北極)であると同時に、阿房宮も天極(北極)ということがありうるでしょうか。ここで鶴間説が阿房宮を北斗七星と言っている典拠不明な記述を思い出してみます。

史記』天官書が「中宮天極星,其一明者,太一常居也。旁三星三公,或曰子屬。後句四星,末大星正妃,餘三星後宮之屬也。環之匡衞十二星,藩臣。皆曰紫宮」と言っています。天極星(当時の北極星こぐま座β星)は、太一(天帝)の住むところ。ただ北極の「紫宮」(天帝の宮殿)と取るなら、北極星の一点ではなく、二十個の恒星から成る広がりを持っていたことが分かります。しかし天官書が北斗七星の条を別立てにしているように、北極の「紫宮」には北斗七星は含まれていません。阿房宮が北斗七星なら、前述の『史記』始皇三十五年の条が阿房宮を天極(北極)の出発点としてに置くのはおかしいということになります。

さて『史記正義』荊軻列伝に「三輔黃圖云,秦始兼天下,都咸陽,因北陵營宮殿,則紫宮象帝宮,渭水貫都以象天漢,膻橋南度以法牽牛也」とあります。『史記』の注釈書のひとつ『史記正義』は、ここで『三輔黄図』を引用しています。統一後の秦は咸陽の北陵に宮殿を営んだことが言われているのですが、どうも渭水北岸の咸陽宮がここでは「紫宮」(≒帝宮=北極)ということになっているのです。渭水が天漢(天の川)をかたどって都を貫き、横橋(渭橋)が南に渡っているのは牽牛(アルタイル)に相当するわけです。

旧唐書』許敬宗伝に「秦都咸陽,郭邑連跨渭水,故云,渭水貫都,以象天河」とあるのも、『三輔黄図』の記事が変形したものでしょう。余談ですが、秦の都の咸陽が後世の印象と異なり、渭水の北岸だけでなく、渭水の南北両岸に広がりを持つものだったことは、強調されてよいと思います。「渭水は天漢を象るを以て都を貫く」というのもなかなか良いフレーズです。

話を戻しますと、北極星に相当するが極廟なのか、阿房宮なのか、咸陽宮なのか、史料の選択によって三説の三すくみになっています。ただ秦の宮殿の配置が天文をかたどっているという伝説に触れて、後世の研究者が辻褄を合わせるために血道を上げ、辻褄を合わせきれないという滑稽さはどうにもぬぐえません。